北方領土問題 関係史(日本の領有時代まで)

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北方領土問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 17:22 UTC 版)

関係史(日本の領有時代まで)

千島アイヌ竪穴建物
択捉島の日本時代の仏教寺院(1939年以前)
択捉島紗那村。昭和初期の紗那(手前は村立病院、左奥が択捉水産の工場、中央は郵便局の無線塔)、1945年以前


古代

中世

  • 13世紀前半
    • 日本は有史以来、領土を北方へ拡張し続けており、その勢力圏は同時点までに本州島の北端(現在の青森県にあたる)へ達した。
    • 日本は同国の勢力圏よりも北方を漠然と「蝦夷地(えぞち)」と呼称しており、同時代ごろから「蝦夷地」は北海道および千島列島、樺太へと限定されるようになった[46]
    • 日本の鎌倉幕府執権である北条義時が、本州北部を治めていた豪族安藤五郎を「蝦夷管領」に任命した[47]
    • この頃から本州から北海道南部(渡島半島道南)へ日本人和人)が進出し始めた。和人とアイヌとの交易が盛んになり、アイヌの生活に変化をもたらした[48]
  • 1454年(享徳3年)
  • 15世紀後半
    • 北海道南部で和人の活動領域が広まり、和人とアイヌとの対立が激化した[48]
  • 16世紀
    • ロシア(ロシア・ツァーリ国)は国力増大のために領土の獲得を試み、ウラル山脈を西から東へ越えてシベリアに進出した。当初はさらに南方を目指したが、清国に妨げられたため、目標を東方に転じた。当時シベリアは毛皮の産地であったため、毛皮を求めて積極的に東へ進出するようになった[49]

近世

江戸時代

  • 17世紀前半
    • 日本の大名である松前藩が、安藤氏(安藤五郎の一族)から独立して成立した[50]
    • 松前藩は北海道南端の渡島半島を拠点にし、アイヌとの交易圏を独占した。同藩はアイヌと和人の居住地を分割(蝦夷地と和人地)して両者間の往来と交易を厳しく制限し、さらにアイヌに対して不当な価格による交易を強制した[48]
  • 1615年 - 1621年元和1年 - 元和7年)ごろ
    • 松前藩の記録「新羅之記録[51][52]」によれば、同藩の和人たちはメナシ地方(現在の根室方面)のアイヌらとラッコ毛皮の羽などの交易を行っていた。アイヌらは100隻近い舟に物品を積載して松前(松前藩の本拠地)まで来ており、それらの産地となる島があることが知られていたという[10][53]。同藩主はこれを江戸幕府の将軍へ献上した[54]
    • ラッコは日本周辺では千島列島海域でしか獲れないため、当時の和人が北方四島や千島のアイヌと交流していたと考えられる[54]
  • 1618年(元和4年)
  • 1643年(寛永20年)
  • 1644年正保1年)
    • 日本の江戸幕府が作成した地図『正保御国絵図』(外部ページでの図示)に、松前藩が支配している「蝦夷地」として北海道本島、その北に樺太、そして知床半島納沙布岬の東に「クルミセ」という39の島々が記された。クルミセは千島列島と考えられ、そのうち34の島は「クナシリ(国後島)」や「エトロホ(択捉島)」「ウルフ(得撫島)」などと現在とほぼ同じ島名で記載された[10][54]
    • ただし、この地図では東北地方松前半島が比較的正確に描かれているのに対して、北海道本島および樺太は実際よりもはるかに小さく描かれており、さらに択捉島、国後島および千島列島はそれらの大きさおよび位置関係が不正確なものであった[10]
    • この地図は、松前藩が江戸幕府に提出したものを基礎としており、提出された原本は残っていないが、松前藩はその10年前である1635年寛永12年)に蝦夷地の探検調査を行っているため、当時得られた知識に基づいて作られたものと考えられる[10]
  • 1661年
    • 日本の伊勢国の七郎兵衛らの船が択捉島に漂流した。日本人では初めて千島列島に漂着した記録であるとされ、当時はアイヌらが先住する島であったという[55]
  • 1711年正徳1年)
  • 1715年正徳5年)
    • 松前藩主は江戸幕府への報告において「北海道本島、千島列島、カムチャツカ、樺太は松前藩の領土であり、自分が統治している。これらの地域にはアイヌがそれぞれ住んでおり酋長がいるが、総支配は松前藩が行っている」と述べた[10]
    • 同藩は当初は厚岸を拠点として「クナシリ」や「エトロフ」などのアイヌとの交易を行った。その後「キリタップ(霧多布)」や「ノツカマップ(現在の根室市内)」へと交易の場所を広げた[10]

江戸幕府とロシア帝国との接触

  • 1725年
    • ロシア帝国海軍士官のマルティン・シュパンベルクは、日本への航路探索のため、千島列島を探検船で南下した。彼は千島列島がラッコやオットセイなどの海獣に富むことを発見した[54]
  • 1738年元文3年)
    • シュパンベルクはさらに日本沿岸を航海し、房総半島や伊豆半島などにも到達した(元文の黒船[10]
    • 翌1739年には、シュパンベルクはロシア人として初めて千島列島などの地図を作ったという[54]
      • これは、ロシア帝国の初代皇帝であったピョートル1世(在位1682年 - 1725年)が東方に関心を持っていたことから、その死の直前に同国の海軍大佐ベーリングに探検を命じて探検隊を組織させた結果であった[10]
  • 1754年宝暦4年)
    • 松前藩は国後島に「場所(同が間接的に支配する交易の場)」を設置し、国後島と択捉島、得撫島に強い影響を持つようになった[10]
  • 18世紀
    • ロシアの南下勢力は千島列島に達し、島々の名をロシア名にしたほか、アイヌから税として毛皮を取り立てた。アイヌの生活は苦しくなり、ロシア人への反抗が繰り返された[54]
  • 1760年代
    • ロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。
  • 1778年安永7年)
    • ロシアのラッコ捕獲事業者パベル・レベデフ=ラストチキン商会のオチエレデンは、千島列島の得撫島を根拠地としていたが、3隻の船で根室のノツカマップへ上陸した。千島列島にいるロシア人たちは本国から遠く離れているため食料や物資の不足に悩まされており、日本と交易して生活物資を得ようと考えていた[54]
    • オチエレデンは日本の松前藩の役人へ交易を提案したところ、同役人は「外国との交易は国法で禁じられている(鎖国)ので、今はどうにもならない。藩主の指示を受けて来年回答する」と回答してオチエレデンを根拠地へ帰した[54]
    • これは日本とロシアとの初めての接触であった[54]
  • 1779年
    • オチエレデンらは厚岸で再び会見し、日本の役人は「交易は許可できない。ただし得撫島のアイヌを仲介者として択捉島のアイヌと交易することは許可する。どうしても日本との交易を望むなら、長崎(当時の日本の外国との窓口)まで行って申し出なさい」と告げた[54]
  • 1785年天明5年)
    • 日本の江戸幕府はロシアの千島列島進出に危機感を持ち、もはや松前藩単独では対抗できないことから、北方四島や千島列島に役人を派遣して実地調査を行った[54]
    • 派遣された探検家最上徳内らが蝦夷地から得撫島までを踏破した[10]。最上が記した「蝦夷草子」によれば、最上らは国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を調査し、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したいう[49]日本人では最初の得撫島への上陸であった[56]
    • その際、択捉島にはすでに3名のロシア人が居住していた。またアイヌの中に正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、すでにロシア人の足跡があったとされる(ただし、正教はロシア人・ロシア国民以外にも信仰されているものであり〈例:ギリシャ正教会ブルガリア正教会日本正教会〉、正教徒が必ずロシア人とは限らない)。
  • 1792年寛政4年)
  • 1793年(寛政5年)
    • 日本の江戸幕府はラクスマンへ返答し、内容は「漂流民の送還については感謝する。しかし江戸(事実上の首都)への来航は許可できない。日本の国法により通商はできない。長崎においてなら話し合う」というものだった。結局、ラクスマンは長崎への入港許可証を与えられただけで本国へ引き返した[54]
    • ロシアはラクスマンの報告によって、日本との交易が有望だと考えた。同国は得撫島に移民4家族をはじめ58人を送り、ロシアの基地を再建した[54]
  • 1798年(寛政10年)
    • 江戸幕府は大規模な蝦夷地巡察隊を派遣した。この隊の一人であった近藤重蔵最上徳内を案内役とし、択捉島の丹根萌に日本領を示す「大日本恵登呂府」の標柱を建てた[10][54]
  • 1799年(寛政11年)
    • 江戸幕府は国防上の必要から千島・樺太を含む蝦夷地を幕府の直轄地(天領)として統治することとし、近藤をその処置に任命した。近藤は船頭の高田屋嘉兵衛とともに北方四島へ訪れた。国後島と択捉島との間の航路は大変困難とされており、嘉兵衛の大きな功績であった[54]
  • 1800年
    • 江戸幕府はロシアとの国境を接する択捉島の開発に乗り出した。近藤は嘉兵衛らとともに、嘉兵衛が開拓した航路によって再び択捉島に渡った。本土と同じ郷村制を採用し、17か所の漁場を開いた。彼らはこのときも択捉島のカムイワッカオイの丘に 「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てた。また航路やを整備したほか、アイヌへ漁法を伝授し漁具を与えた[54]
  • 1801年享和1年)
    • 江戸幕府は択捉島などに役人を常駐させ、南部藩津軽藩本州の北端を拠点としていた。現在の青森県から岩手県北部にあたる)から100人あまりの藩士を送って国後島と択捉島の防備を固めた。こうして日本による色丹島、国後島、択捉島の本格的開発が始められた[10][54]
  • 1804年文化1年)
    • ロシア帝国の外交官ニコライ・レザノフ露米会社の設立者)が、日本との通商を求めて長崎へ来航した。1793年のラクスマンの報告に基づいたものであったが、江戸幕府はレザノフらを半年近くも待たせたすえに通商を拒否した。レザノフはもはや日本の門戸を開かせるためには武力で脅かすしか方法がないと考え、部下に命じて樺太や択捉島を襲撃し、放火、暴行、略奪を行った[10][54]
    • 江戸幕府はこれに対してロシア船の打ち払いを命じた[10]
  • 1807年(文化4年)
    • ロシアの露米会社の武装船2隻が択捉島を襲った。露米会社は南部・津軽両藩の守備隊を破り、番屋会所に乱入して物品を略奪し、建物を焼いた。松前奉行支配調役であった戸田亦太夫は、責任をとって自決した。
  • 1811年(文化8年)
    • ロシアの軍艦ディアナ号の艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーン少佐らが、クリル(千島)列島の測量を命じられて国後島を訪れた際、江戸幕府によって捕縛された。ディアナ号の副艦長ピョートル・リコルドロシア語版は報復として日本船を襲い、幕府御雇船頭の高田屋嘉兵衛を捕縛した。嘉兵衛の努力により、日本とロシアがゴロヴニーンと嘉兵衛とを互いに交換して釈放した(ゴローニン事件)。
    • これらの事件の原因は、日本とロシアとの国境が曖昧なままであったためであった。[10][54]
  • 1813年(文化10年)
    • 上述のような事件を契機に、日本とロシアとが国境策定の交渉を始めた[10][54]
    • 両国間の国境を「日本は択捉島以南、ロシアは新知島以北とし、その中間にある得撫島は両国の混住の地とする」とすることについて交渉する予定であったが、翌年に約束したロシア船が日本へ来航しなかったために交渉は成立しなかった[54]
  • 1821年文政4年)
    • 日本とロシアとの緊張が緩和されてきたため、江戸幕府は蝦夷地を直轄支配することを中止し、再び松前藩へ統治させるように転じた[54]

近代

日本の開国後

  • 1853年嘉永6年)
    • ロシア皇帝ニコライ1世は海軍提督エフィム・プチャーチンを日本へ派遣し、通商を求めるとともに樺太と千島の国境の画定を申し入れた。両国は長崎で交渉を行った[10]
    • ロシアは択捉島と樺太の領有を強く主張した。一方で日本は「北方四島および千島列島は探検や開拓の歴史からみても日本の領土である」と主張して譲らなかった。交渉は難航し、同年中には合意に至らなかった[54]
  • 1854年嘉永7年)
  • 1855年安政1年)
    • 日本(江戸幕府)とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。この条約により択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が日本領、得撫島から北の島々がロシア領と規定された[10]
    • なお、この条約はオランダ語ロシア語が正文であり、その内容の解釈について、のちの領土問題に関連した議論がある(当該記事参照)。

明治維新から日露戦争

  • 1868年 - 1869年
  • 1869年明治2年)
  • 1875年
    • 日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「クリル群島(: le groupe des îles dites Kouriles千島列島)」の全島を日本領とした。また樺太(当時まで日本とロシアの共同統治としていたが、両国民の紛争が絶えなかった)をロシア領とした。
    • なお、この条約はフランス語正文であり、これに基づいて日本語訳が作られたが、この翻訳は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、得撫島以北が千島列島であるとの解釈がなされたことがある。
    • 条約締結後、当時の日本国内の行政区分で「千島国」と定められていた国後島・択捉島に、得撫島以北を編入し、国後島から占守島までが千島国になった。
    • 一方、樺太および千島列島の先住民であったアイヌは、この条約によって3年以内に自身の国籍について日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要された。さらに国籍と居住国が異なる場合、居住国を退去して国籍と一致する国の領土へ移住することを余儀なくされた[9]
  • 1904年 - 1905年

ロシア革命期

第二次世界大戦

  • 1931年
  • 1937年
  • 1939年
  • 1940年
    • 11月25日:ソ連の外務人民委員(外相モロトフが駐ソ連ドイツ大使を呼び出し、ドイツ外相フォン・リッベントロップの提案[59]に従って、日独伊三国同盟を「日独伊ソ四国同盟」とする事にソ連政府として同意した[60]。締結にあたって解決すべき条件があり、その中に北サハリン(樺太)における日本の石炭・石油採掘権の放棄という項目があった[60]。しかし、この同盟案はドイツがソ連に奇襲攻撃をかけたため消滅した。
  • 1941年
    • 4月13日:日本とソ連は、日ソ中立条約を締結した。両国は、相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立などを義務付けた。有効期間は5年間(1946年4月24日まで)であり、「有効期間満了の1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は、自動的に5年間延長される」と記述された。
    • 6月22日:独ソ戦勃発。
    • 7月:関東軍特種演習
    • 日米開戦前、アメリカ大統領ルーズベルトヨシフ・スターリンに、日本軍がソ連沿海州を攻撃するという情報を届けた[61]。これに関連し、ソ連極東地域にアメリカ空軍基地建設許可、アラスカ経由での航空機輸送を提案した[61]。だがゾルゲなどの諜報機関から日本が対米開戦ハワイ奇襲を決意したことを知るスターリンは相手にせず[61]、米軍爆撃機基地建設を拒絶した[62]
    • 12月8日:太平洋戦争勃発。
  • 1942年
    • 6月17日:新任アメリカ大使スタンリー将軍がルーズベルトの親書をスターリンに手渡した[63]。ルーズベルトは再び日本軍のソ連侵攻に言及し、極東に米軍基地建設を求めた。スターリンは、独ソ戦の激戦が続く間、日本との関係を悪化させないと特命全権大使に言明した[63]

ソ連の対日参戦協定

  • 1943年
    • 10月:モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)。スターリンの通訳によれば、10月30日に開催されたクレムリンのエカテリーナ広間晩餐会で、スターリンは隣に座るハル国務長官に対し、ドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた[64]。ただし、耳打ちという形で告げられ、当分の間秘密とされた。
    • 11月末、イランテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この会談でルーズベルトとチャーチルは、1944年の5月までにヨーロッパで第二次戦線を開くことを約束した。その見返りにスターリンは、ドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきり約束し、そのためにいかなる「要望」を提出するかは、後で明らかにすると言明した[65]
    • テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するために戦争をしていること、日本の無条件降伏を目指すことが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。
  • 1944年
    • 12月14日:スターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して南樺太や千島列島などの領有を要求する[66][67]。これがのちにヤルタ協定に盛り込まれることとなる。
  • 1945年1月 - 8月:戦時下の国際情勢
    • 2月、ソ連のヤルタで連合国のうち米国英国・ソ連の3首脳が会談した(ヤルタ会談)。ここで、連合国がのちに第二次世界大戦に勝利した場合における戦勝国間での戦勝権益の世界分割が話し合われた。
    • 4月5日:ソ連の外相モロトフが、日ソ中立条約の失効を日本側へ通告した[17]。日ソ中立条約の規約では、この条約は5年間有効であり、締結の5年後にあたる期間満了日から1年以上前にどちらかの国が失効を通告しない場合は、自動的に5年間延長されることになっていた。この通告によって、同条約は翌1946年4月25日に失効することになった[* 6][68]
      • この通告を、日本側は条文にもとづいて「条約は翌年の期間満了日に失効する(その日までは有効)」と解釈したが、ソ連側はのちに「条約は当日からすでに失効した」という意味の通告だったとしている。
    • 7月17日 - 8月2日:ソ連が占領するポツダムで、再び米国・英国・ソ連の3首脳が会談した(ポツダム会談)。ここでソ連は米国と英国に対し、ソ連に対日参戦を求める内容を明文化することを要求した。理由は日ソ中立条約がいまだ有効期間内であったためである。

ソ連の対日参戦

  • 1945年8月:ソ連による対日宣戦布告
    • 8月8日モスクワ時間の午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連の外相モロトフは、クレムリン駐ソ連日本大使佐藤尚武を招致し、「翌8月9日から日本と戦争状態になる」ことを通告して宣戦布告した[17]
      • ソ連の対日宣戦布告を受けた佐藤はモスクワから日本国外務省へ打電した[17]が、ソ連のモスクワ中央電信局妨害によって日本国内へは宣戦布告の情報が伝達されなかった[69]
      • 1時間後のモスクワ時間午後6時(日本時間:翌9日の午前0時)、ソ連は日本との国交を断絶し、日本を侵攻するための進軍を開始した[69]
      • 日ソ中立条約は当時まだ有効期間内であった[17]
    • 8月9日:日本時間の午前4時(モスクワ時間:前8日午後10時)、いまだに宣戦布告は日本へ伝達されていなかったが、ソ連や米国などのマスメディアがソ連の宣戦布告を報道していた。日本はその報道によってようやくソ連の参戦を把握し、日本の外務省は各国の在外日本公館へ参戦を告げる電報を送った[* 7]。すでにソ連軍の侵攻開始から4時間が経過していた[69]
    • 8月10日:日本時間の午前11時15分、ソ連の駐日大使ヤコフ・マリクが日本の外相東郷茂徳を訪問し、公式な宣戦布告の文書を通知した。すでにソ連軍の侵攻開始から35時間が経過していた[69]
      • なお、日本からソ連への宣戦布告は最後まで行われなかった[69]。このことから、日本側は「日本軍によるソ連軍への戦闘行為は、現場の日本兵たちがソ連軍からの攻撃に直面したことによる防衛行動であった」としている。
    • 8月10日:午後10時、ソ連は赤軍の第2極東戦線第16軍に向けて「8月11日に樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を行ったが、ソ連側の各兵科部隊は準備不足から任務に至らなかった。

日本の降伏とソ連の占領

  • 1945年8月:停戦とその後の侵攻
    • 8月14日:日本は御前会議において、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定し、連合国へ同宣言の受諾を通告した。
    • 8月15日:日本国内では降伏と敗戦を国民へ告げる玉音放送が流され、日本軍は自発的戦闘行動を停止した。ソ連は北千島への作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島占守島幌筵島温禰古丹島を占領するように命じた。
    • 8月16日:日本領であった南樺太へソ連が侵攻した。この際、米ソ合同作戦「プロジェクト・フラ」によりアメリカ合衆国(米国)で建造された軍艦や米軍に習熟訓練を受けたソ連兵も参加し、この後の侵攻でも使われた。
    • 8月16日:日本の大本営から即時停戦命令が出たため、日本側の関東軍総司令部が停戦と降伏を決定。
    • 8月18日:ソ連軍は千島列島への侵攻と占領を開始し、北端の占守島に上陸した(占守島の戦い)。ソ連軍は約2万5千人の日本軍と交戦したが、日本軍は司令部の命令により交戦を中止した。
      • 8月23日に日ソ両軍は現地で停戦協定を締結し、日本軍は武器をソ連軍に引き渡した[17]
    • 8月23日:スターリンは「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍からの捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。これにより日本人捕虜たちは主にシベリアなどへ労働力としてソ連の各地へ移送・隔離され、シベリア抑留問題となった。
    • 8月28日から9月1日までに、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫島を占領した。
      • ソ連軍は8月28日に択捉島に上陸し、9月1日には国後島、色丹島に、9月3日には歯舞群島に上陸した。
      • 9月5日までにソ連軍が択捉島・国後島・色丹島を占領した[17]
      • 9月3日から5日にかけてソ連軍が歯舞群島を占領した
      • これら四島の占領の際には日本軍は組織的戦闘をすでに終了していたため、占領過程で死傷者は出なかったとされる[11]
    • 9月2日:日本は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ甲板において、連合国降伏文書を締結した。これにより停戦となった。同文書では、連合国側として連合国最高司令官とソ連を含む各国代表も署名を行い、国際的に停戦が確認された。
      • 既に8月22日に千島諸島の日本軍は戦闘停止していたが、連合国からの指令「一般命令第一号」で千島諸島の日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととされた。
    • ソ連は当時、樺太と千島にとどまらず、北海道本島の北半分を占領することを目標としていた[20]

1957年(昭和32年)、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸して占領する。







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