北方領土問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 17:22 UTC 版)
関係史(日本の領有時代まで)
古代
中世
近世
江戸時代
- 17世紀前半
- 1615年 - 1621年(元和1年 - 元和7年)ごろ
- 1618年(元和4年)
- 1643年(寛永20年)
- オランダの東インド会社の総督アントニオ・ヴァン・ディーメンによって派遣された探検家のマルチン・ド・フリースらが千島列島を航海し、得撫島に上陸した。フリースの航海日誌や地図によって、千島列島の所在が初めてヨーロッパに紹介された[49]。
- フリースは択捉島をスターテンランド(国家島)、得撫島をカンパニースランド(会社島)と命名し、両島の領有宣言を行った[49]。
- ただし、この地図では千島列島のうち一部が示されたにすぎず、またカンパニースランドをアメリカ大陸の一部であると誤認するほど甚だしく不正確なものであった[49]。
- 1644年(正保1年)
- 日本の江戸幕府が作成した地図『正保御国絵図』(外部ページでの図示)に、松前藩が支配している「蝦夷地」として北海道本島、その北に樺太、そして知床半島と納沙布岬の東に「クルミセ」という39の島々が記された。クルミセは千島列島と考えられ、そのうち34の島は「クナシリ(国後島)」や「エトロホ(択捉島)」「ウルフ(得撫島)」などと現在とほぼ同じ島名で記載された[10][54]。
- ただし、この地図では東北地方や松前半島が比較的正確に描かれているのに対して、北海道本島および樺太は実際よりもはるかに小さく描かれており、さらに択捉島、国後島および千島列島はそれらの大きさおよび位置関係が不正確なものであった[10]。
- この地図は、松前藩が江戸幕府に提出したものを基礎としており、提出された原本は残っていないが、松前藩はその10年前である1635年(寛永12年)に蝦夷地の探検調査を行っているため、当時得られた知識に基づいて作られたものと考えられる[10]。
- 1661年
- 1711年(正徳1年)
- ロシア人が初めて千島列島に進出した。コサックの反乱者コズィレフスキーら2人が千島列島の最北端である占守(シュムシュ)島に上陸し[10]、住民と戦って征服した。翌年には幌筵(パラムシル)島も征服した。さらに翌々年の1713年には温禰古丹(オンネコタン)島等を襲撃し、これらの島々を調査して帰国した[49]。
- 1715年(正徳5年)
江戸幕府とロシア帝国との接触
- 1725年
- 1738年(元文3年)
- 1754年(宝暦4年)
- 18世紀
- ロシアの南下勢力は千島列島に達し、島々の名をロシア名にしたほか、アイヌから税として毛皮を取り立てた。アイヌの生活は苦しくなり、ロシア人への反抗が繰り返された[54]。
- 1760年代
- ロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。
- 1778年(安永7年)
- ロシアのラッコ捕獲事業者パベル・レベデフ=ラストチキン商会のオチエレデンは、千島列島の得撫島を根拠地としていたが、3隻の船で根室のノツカマップへ上陸した。千島列島にいるロシア人たちは本国から遠く離れているため食料や物資の不足に悩まされており、日本と交易して生活物資を得ようと考えていた[54]。
- オチエレデンは日本の松前藩の役人へ交易を提案したところ、同役人は「外国との交易は国法で禁じられている(鎖国)ので、今はどうにもならない。藩主の指示を受けて来年回答する」と回答してオチエレデンを根拠地へ帰した[54]。
- これは日本とロシアとの初めての接触であった[54]。
- 1779年
- 1785年(天明5年)
- 日本の江戸幕府はロシアの千島列島進出に危機感を持ち、もはや松前藩単独では対抗できないことから、北方四島や千島列島に役人を派遣して実地調査を行った[54]。
- 派遣された探検家の最上徳内らが蝦夷地から得撫島までを踏破した[10]。最上が記した「蝦夷草子」によれば、最上らは国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を調査し、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したいう[49]。日本人では最初の得撫島への上陸であった[56]。
- その際、択捉島にはすでに3名のロシア人が居住していた。またアイヌの中に正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、すでにロシア人の足跡があったとされる(ただし、正教はロシア人・ロシア国民以外にも信仰されているものであり〈例:ギリシャ正教会、ブルガリア正教会、日本正教会〉、正教徒が必ずロシア人とは限らない)。
- 1792年(寛政4年)
- 1793年(寛政5年)
- 1798年(寛政10年)
- 1799年(寛政11年)
- 1800年
- 1801年(享和1年)
- 1804年(文化1年)
- 1807年(文化4年)
- 1811年(文化8年)
- 1813年(文化10年)
- 1821年(文政4年)
- 日本とロシアとの緊張が緩和されてきたため、江戸幕府は蝦夷地を直轄支配することを中止し、再び松前藩へ統治させるように転じた[54]。
近代
日本の開国後
明治維新から日露戦争
- 1868年 - 1869年
- 1869年(明治2年)
- 1875年
- 日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「クリル群島(仏: le groupe des îles dites Kouriles、千島列島)」の全島を日本領とした。また樺太(当時まで日本とロシアの共同統治としていたが、両国民の紛争が絶えなかった)をロシア領とした。
- なお、この条約はフランス語が正文であり、これに基づいて日本語訳が作られたが、この翻訳は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、得撫島以北が千島列島であるとの解釈がなされたことがある。
- 条約締結後、当時の日本国内の行政区分で「千島国」と定められていた国後島・択捉島に、得撫島以北を編入し、国後島から占守島までが千島国になった。
- 一方、樺太および千島列島の先住民であったアイヌは、この条約によって3年以内に自身の国籍について日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要された。さらに国籍と居住国が異なる場合、居住国を退去して国籍と一致する国の領土へ移住することを余儀なくされた[9]。
- 1904年 - 1905年
ロシア革命期
第二次世界大戦
- 1931年
- 満州事変勃発。
- 1937年
- 日中戦争勃発。
- 1939年
- 1940年
- 1941年
- 4月13日:日本とソ連は、日ソ中立条約を締結した。両国は、相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立などを義務付けた。有効期間は5年間(1946年4月24日まで)であり、「有効期間満了の1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は、自動的に5年間延長される」と記述された。
- 6月22日:独ソ戦勃発。
- 7月:関東軍特種演習。
- 日米開戦前、アメリカ大統領ルーズベルトはヨシフ・スターリンに、日本軍がソ連沿海州を攻撃するという情報を届けた[61]。これに関連し、ソ連極東地域にアメリカ空軍基地建設許可、アラスカ経由での航空機輸送を提案した[61]。だがゾルゲなどの諜報機関から日本が対米開戦ハワイ奇襲を決意したことを知るスターリンは相手にせず[61]、米軍爆撃機基地建設を拒絶した[62]。
- 12月8日:太平洋戦争勃発。
- 1942年
ソ連の対日参戦協定
- 1943年
- 10月:モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)。スターリンの通訳によれば、10月30日に開催されたクレムリンのエカテリーナ広間晩餐会で、スターリンは隣に座るハル国務長官に対し、ドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた[64]。ただし、耳打ちという形で告げられ、当分の間秘密とされた。
- 11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この会談でルーズベルトとチャーチルは、1944年の5月までにヨーロッパで第二次戦線を開くことを約束した。その見返りにスターリンは、ドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきり約束し、そのためにいかなる「要望」を提出するかは、後で明らかにすると言明した[65]。
- テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するために戦争をしていること、日本の無条件降伏を目指すことが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。
- 1944年
- 12月14日:スターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して南樺太や千島列島などの領有を要求する[66][67]。これがのちにヤルタ協定に盛り込まれることとなる。
- 1945年1月 - 8月:戦時下の国際情勢
- 2月、ソ連のヤルタで連合国のうち米国・英国・ソ連の3首脳が会談した(ヤルタ会談)。ここで、連合国がのちに第二次世界大戦に勝利した場合における戦勝国間での戦勝権益の世界分割が話し合われた。
- 4月5日:ソ連の外相モロトフが、日ソ中立条約の失効を日本側へ通告した[17]。日ソ中立条約の規約では、この条約は5年間有効であり、締結の5年後にあたる期間満了日から1年以上前にどちらかの国が失効を通告しない場合は、自動的に5年間延長されることになっていた。この通告によって、同条約は翌1946年4月25日に失効することになった[* 6][68]。
- この通告を、日本側は条文にもとづいて「条約は翌年の期間満了日に失効する(その日までは有効)」と解釈したが、ソ連側はのちに「条約は当日からすでに失効した」という意味の通告だったとしている。
- 7月17日 - 8月2日:ソ連が占領するポツダムで、再び米国・英国・ソ連の3首脳が会談した(ポツダム会談)。ここでソ連は米国と英国に対し、ソ連に対日参戦を求める内容を明文化することを要求した。理由は日ソ中立条約がいまだ有効期間内であったためである。
ソ連の対日参戦
- 1945年8月:ソ連による対日宣戦布告
- 8月8日:モスクワ時間の午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連の外相モロトフは、クレムリンに駐ソ連日本大使の佐藤尚武を招致し、「翌8月9日から日本と戦争状態になる」ことを通告して宣戦布告した[17]。
- 8月9日:日本時間の午前4時(モスクワ時間:前8日午後10時)、いまだに宣戦布告は日本へ伝達されていなかったが、ソ連や米国などのマスメディアがソ連の宣戦布告を報道していた。日本はその報道によってようやくソ連の参戦を把握し、日本の外務省は各国の在外日本公館へ参戦を告げる電報を送った[* 7]。すでにソ連軍の侵攻開始から4時間が経過していた[69]。
- 同日は午前11時に日本の長崎市へ原子爆弾が投下されるなど過酷な状況でもあった。
- 8月10日:日本時間の午前11時15分、ソ連の駐日大使ヤコフ・マリクが日本の外相東郷茂徳を訪問し、公式な宣戦布告の文書を通知した。すでにソ連軍の侵攻開始から35時間が経過していた[69]。
- なお、日本からソ連への宣戦布告は最後まで行われなかった[69]。このことから、日本側は「日本軍によるソ連軍への戦闘行為は、現場の日本兵たちがソ連軍からの攻撃に直面したことによる防衛行動であった」としている。
- 8月10日:午後10時、ソ連は赤軍の第2極東戦線第16軍に向けて「8月11日に樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を行ったが、ソ連側の各兵科部隊は準備不足から任務に至らなかった。
日本の降伏とソ連の占領
- 1945年8月:停戦とその後の侵攻
- 8月14日:日本は御前会議において、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定し、連合国へ同宣言の受諾を通告した。
- 8月15日:日本国内では降伏と敗戦を国民へ告げる玉音放送が流され、日本軍は自発的戦闘行動を停止した。ソ連は北千島への作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島の占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。
- 8月16日:日本領であった南樺太へソ連が侵攻した。この際、米ソ合同作戦「プロジェクト・フラ」によりアメリカ合衆国(米国)で建造された軍艦や米軍に習熟訓練を受けたソ連兵も参加し、この後の侵攻でも使われた。
- 8月16日:日本の大本営から即時停戦命令が出たため、日本側の関東軍総司令部が停戦と降伏を決定。
- 8月18日:ソ連軍は千島列島への侵攻と占領を開始し、北端の占守島に上陸した(占守島の戦い)。ソ連軍は約2万5千人の日本軍と交戦したが、日本軍は司令部の命令により交戦を中止した。
- 8月23日に日ソ両軍は現地で停戦協定を締結し、日本軍は武器をソ連軍に引き渡した[17]。
- 8月23日:スターリンは「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍からの捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。これにより日本人捕虜たちは主にシベリアなどへ労働力としてソ連の各地へ移送・隔離され、シベリア抑留問題となった。
- 8月28日から9月1日までに、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫島を占領した。
- 9月2日:日本は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板において、連合国と降伏文書を締結した。これにより停戦となった。同文書では、連合国側として連合国最高司令官とソ連を含む各国代表も署名を行い、国際的に停戦が確認された。
- 既に8月22日に千島諸島の日本軍は戦闘停止していたが、連合国からの指令「一般命令第一号」で千島諸島の日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととされた。
- ソ連は当時、樺太と千島にとどまらず、北海道本島の北半分を占領することを目標としていた[20]。
1957年(昭和32年)、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸して占領する。
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