北方領土問題
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関係史(ソ連の実効支配から)
日本の返還運動の発端
- 1945年(昭和20年)
- 12月1日:日本の根室町長(現在の根室市長にあたる)であった安藤石典、また近隣の漁民代表、および北方四島から脱出した元島民の代表が、当時の日本を占領・統治していた連合軍最高司令官マッカーサー元帥に対して、北方四島をアメリカ合衆国(米国)が保護するようにと陳情を行った。その内容は「歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島は日本固有の領土である。ポツダム宣言を忠実に履行する上からも、アメリカ軍の保証占領下に置いて、島民が安心して生業に付けるようにしてほしい」というものであった[70]。
- この陳情は当時から「4つの島」の返還を目指したものであり、現在まで続く日本による北方領土返還運動の発端となった[70]。
- 12月1日:日本の根室町長(現在の根室市長にあたる)であった安藤石典、また近隣の漁民代表、および北方四島から脱出した元島民の代表が、当時の日本を占領・統治していた連合軍最高司令官マッカーサー元帥に対して、北方四島をアメリカ合衆国(米国)が保護するようにと陳情を行った。その内容は「歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島は日本固有の領土である。ポツダム宣言を忠実に履行する上からも、アメリカ軍の保証占領下に置いて、島民が安心して生業に付けるようにしてほしい」というものであった[70]。
ソビエト連邦時代
スターリン - GHQ時代
- 1946年(昭和21年)
- 1月29日:連合国最高司令官司令により、「千島列島、歯舞群島、色丹島」などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止された[* 3][21](SCAPIN-677)。これらはソビエト連邦の行政管轄区域となった。
- 2月2日:ソビエト連邦最高会議が、南サハリン(南樺太)およびクリル諸島(千島列島)を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言した(南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令、ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。同地域はソ連の南サハリン州として新設され、ロシア共和国・ハバロフスク地方へと編入された[17][71]。
- 2月11日:ヤルタ会談における極東密約(ヤルタ協定)が公開された。
- 北方領土には日本国民は約1万7000人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
- 12月:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)とソ連との間で捕虜となっていた日本国民の引き上げ(「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」)が合意され、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した[* 8]。
- 1951年
- 9月8日:日本は連合国諸国とサンフランシスコ平和条約を締結したことにより、多くの国々との戦争状態が正式に終結して国家主権を認められた。
- 同条約において、日本は朝鮮半島や台湾、南樺太、そして千島列島などの領有を放棄した[11]。当時の平和条約国会で、日本政府はヤルタ協定のいう「千島列島」の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している [22][23][24]。しかし、この説明は5年後の1956年2月に取り消され、以後の同政府は「国後島と択捉島は千島列島に含まれず、日本が放棄した対象ではない」と主張している[26][28]。
- ただし、ソビエト連邦はこのサンフランシスコ平和条約に調印しなかった(背景にはアメリカ合衆国との冷戦があった)[31][32]。以後、同連邦を継承したロシア連邦もこの条約に調印していない[32]。
フルシチョフ - 自民党時代
- 1953年(昭和28年)
- 1956年 戦後の両国間交渉
- 日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)
- 日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした[いつ?][誰?]。
- 米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと国務省の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。
- しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起するとの回答があった。
- 平和条約の締結交渉については、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島の「譲渡」で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されなかった。平和条約の締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ「共同宣言」で決着した[73]。
- 日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係が回復。日本とソ連は1956年12月7日、日ソ共同宣言の批准書を交換し、日ソ共同宣言は同日発効した。
- 1957年
- 1960年
- 1962年(昭和37年)
- 1964年
- 1966年8月21日:釧路地検が国後島ケラムイ岬沖でホタテガイを密漁していた漁船の船主らを漁業法に違反するとして起訴。船主側は「外国の領海で操業したのだから、日本の漁業法は適用されない」として争うこととなった。一審では「国後島に日本の統治権は及んでいない」として船主側に無罪が言い渡されたが、二審では「漁業法は統治権が及ぶか否かに関わらず、我が国の水産資源と漁民保護の立場から、無許可操業した場合全ての海域に適用される」として船主側が敗訴。船主側は最高裁に上告したが、1970年10月1日に棄却された[80]。
ブレジネフ - 自民党時代
- 1970年
- 1972年
- 日本の大平正芳外相が北方領土問題の国際司法裁判所への付託を提案したが、ソ連のアンドレイ・グロムイコ外相が拒否した[83]。
- 1973年
- 1981年(昭和56年)
- 2月7日:日本で北方領土の日が制定された。以後、毎年2月7日を「北方領土の日」としている。
ゴルバチョフ - 自民党時代
ロシア連邦時代
エリツィン - 細川時代
- 1993年
- 10月:日本の細川護煕首相とロシアのエリツィン大統領が会談した。東京宣言(第2項)において、北方四島の島名を列挙した上で、「領土問題を、北方四島の帰属に関する問題であると位置付け、」「四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常化するとの手順を明確化し、」「領土問題を、歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書、及び、法と正義の原則を基礎として解決する」との交渉指針を示した[73]。
- 同時に、日本とソビエト連邦との間の全ての条約その他の国際約束が、日本とロシアとの間で引き続き適用されることを確認した。さらにエリツィン大統領は、「日露間での有効な国際約束には1956年の日ソ共同宣言も含まれる」と発言した[73]。
エリツィン - 橋本時代
エリツィン - 小渕時代
プーチン - 森時代
- 2000年
- 9月:ロシアのプーチン大統領が訪日し、両国は「平和条約問題に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明」において「クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続すること」と「これまでの全ての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を策定するため交渉を継続すること」を確認した。またプーチンは「56年宣言は有効であると考える」と発言した[73]。
- プーチンは2年前の川奈提案(平和条約によって四島の帰属の問題を解決する)は日本側の「勇気と熟慮の成果」であったと述べながらも、「妥協についての我々の考え方と完全には一致していない」として、帰属問題の解決については拒否した[73]。
- 9月:ロシアのプーチン大統領が訪日し、両国は「平和条約問題に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明」において「クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続すること」と「これまでの全ての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を策定するため交渉を継続すること」を確認した。またプーチンは「56年宣言は有効であると考える」と発言した[73]。
- 2001年
- 3月:両国はイルクーツクで首脳会談を行い、イルクーツク声明において「56年日ソ共同宣言を交渉プロセスの出発点と位置付け、その法的有効性を文書で確認」し、「その上で、東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するとの日露共通の認識を再確認」した[73]。
プーチン - 小泉時代
メドベージェフ - 菅直人時代
- 2010年
- 7月:中華人民共和国の国家主席(総書記)である胡錦濤の働きかけもあり、ロシアは日本が第二次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を「終戦記念日」に制定した[85]。
- 11月1日:ロシアのメドヴェージェフ大統領が北方領土の国後島を訪問した。同国のラブロフ外相は、「ロシアの大統領がロシアの領土を訪問した」のみであると主張した。一方で「日ロ間の協力を困難にする一歩を踏み出すつもりはない」とも述べた。この前日に同外相は「ロシア大統領は恒常的にロシアの行きたいところに行く」と述べ、日露関係には「いかなる関連もない」と主張していた[86]。
- 11月1日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補は記者会見の席上で、ロシアのメドヴェージェフ大統領が国後島を訪問したことに関し「北方領土に関して、アメリカは日本を支持している」と述べた[87]。
- 11月2日:アメリカのクローリー国務次官補は記者会見の席上で、「アメリカは北方領土に対する日本の主権を認めている」としたうえで、北方領土に日米安全保障条約が適用されるかについて、「現在は日本の施政下にないため、第5条は適用されない」と述べた[88]。
- 2011年
プーチン - 安倍時代
- 2013年
- (2014年 クリミア危機・ロシアによるクリミアの併合)
- 2016年
- 2018年
- 2019年
- 2月7日:日本は「北方領土の日」となる同日に毎年恒例の「北方領土返還要求全国大会」を東京都内で行ったが、登壇した内閣総理大臣の安倍晋三は、通例であった「北方四島の帰属の問題を解決する」などという表現を行わなかった。さらに外務大臣の河野太郎も前年に用いた「北方領土はわが国固有の領土だ」という表現を行わなかった。そして大会で採択されたアピールでも、通例であった「(北方領土がロシアに)不法に占拠され」という表現は行われなかった[94]。
- 同2月7日:ロシアのマスメディアは上記発言について、国営のロシア通信が「東京で開かれた『北方領土』返還を求める大会で、(日本側が)『不法占拠』という表現を放棄した」「日本の大きな譲歩だ」などと報じた。また同じく国営のロシアテレビの東京特派員は「安倍総理大臣は厳しい表現を控えた。これまでは『不法占拠』や『四島返還』といったことばが必ず使われていたが、今回はなかった」と中継で伝えた[94]。
- 2月8日:日本の参議院議員の小西洋之[* 10]が、日本政府に対して「安倍内閣は『北方四島は日本固有の領土である』との表現による国会答弁をかたくなに拒否している。北方領土は日本の領土なのか」と質問を行った。政府は「ロシア政府との今後の交渉に支障を来すおそれがあることから、お答えすることは差し控えたい」と答弁した。
- 他の質問に対しては、政府は「交渉の対象は、北方四島の帰属の問題であるとの一貫した立場だ」と答弁した[95]。
- 5月11日:北方領土へのビザなし交流に参加していた衆議院議員の丸山穂高(日本維新の会)が、国後島の宿舎『友好の家』での懇談会の最中、元島民で訪問団長の大塚小弥太へ対して「ロシアと戦争で(北方領土を)取り返すのは賛成か反対か」と質問した。大塚は「戦争なんて言葉を使いたくない」と述べたが、なおも丸山は「戦争をしないと取り返せない」などと発言した[96][97]。
- 6月22日:大阪で開催されるG20とそれに合わせ29日に行われる日露首脳会談に先駆けて、ロシアのプーチン大統領は国営放送のインタビューに「北方領土を日本に引き渡す計画はない」と答えた[100]。
- 9月5日:ロシア・ウラジオストクで開催された『東方経済フォーラム』で、安倍が日本とロシアとの平和条約の締結を訴える演説を行った。
- 2020年
- 2月7日:日本の東京で開催された『北方領土返還要求全国大会』で、北方四島について「不法に占拠されている」という表現が用いられなかった。前年に続いて2年連続での不採用となった[104]。
- 7月4日:ロシア憲法の改正に伴い、同憲法に「ロシア領土の割譲を禁止」する内容が明記された。さらに同国の刑法も改正によって「領土割譲禁止に違反した者には最大10年の刑」「領土割譲を呼びかけた者にも最大4年の刑」が記載された[105]。これにより北方領土交渉は事実上完全無効化した。
- これに先立ち、7月2日に国後島に『憲法改正記念碑』が建立された。プーチン大統領は、「このテーマ(南クリルが完全なロシア領であるという事)が特に重要なロシアのある地域の住民が、鉄筋コンクリートで記念碑を設置した。記念碑は『改正憲法は鉄筋コンクリートのように堅固であるべきだ』との提案に沿ったものだ」と述べた[106]。
- 同じく7月2日には、ロシア外務次官のイーゴリ・モルグロフが「日本と島々に関する交渉はしていない」と述べた。
- 9月3日:ロシアは「第2次大戦終結の日」(事実上の対日戦勝記念日)を記念する対日戦勝75周年式典を、北方四島の国後島、択捉島、また色丹島の3島で実施した[105]。
プーチン - 菅義偉時代
- 2020年
- 9月29日:日本の菅義偉首相とロシアのプーチン大統領が電話会談を行い、「1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」ことを改めて合意した[73]。一方、同日にロシアは北方領土を含む地域で軍事演習を行った[105]。
- 10月:ロシアは千島列島での軍事演習用のミサイルシステムの配備を計画していると述べた[107]。南クリル(北方四島)の防衛力強化のため、最新型の主力戦車T72B3の配備を開始した[105]。
- 12月1日:ロシア国防省のZvezdaテレビ局は、ロシアが択捉島での戦闘任務のためにS-300VMミサイルシステムのいくつかの重砲S-300V4バージョンを配備したと報告[107]。この射程は400 kmで、北海道東部の上空も射程に収める[105]。択捉島にすでに短距離対空ミサイルシステムが配備されていたことも確認された[107]。
- 2021年
- 1月20日:アメリカ大統領にジョー・バイデンが就任した。
- 2月:ロシアのプーチン大統領が「日本との関係は発展させたいが、ロシア憲法に違反することは何もするつもりはない。」と述べた。
- 日本の著述家の亀山陽司は、「これは『ロシア領土の割譲を禁止』した条項を指している。この条項では例外規定として国境画定交渉を認めているが、この発言は、北方領土交渉は国境画定交渉ではない(つまり例外にはあたらず憲法違反である)ということを示唆している」と推測した[108]。
- 2月7日:日本の東京で開催された「北方領土返還要求全国大会」で、北方四島について「法的根拠のないままに75年間占拠され続けている」と主張するアピールを採択した。2年間使われていなかった「不法占拠」という文言を事実上復活させた[104]。
- 8月19日:1人のロシア人男性が、4島の国後島から北海道本島へ海を泳いで渡航し、日本の当局に保護・拘束される事件が起こった[109][110][111]。
プーチン - 岸田時代
- 2022年
- 2月7日:アメリカ合衆国の駐日大使であるラーム・エマニュエルが、「(アメリカは)北方四島に対する日本の主権を1950年代から認めている」「北方領土問題で日本を支持する」と話す動画を Twitterに投稿した[113][114]。
- (2月24日 ロシアによるウクライナへの侵攻)
- 3月9日:プーチン大統領は、北方領土と千島列島に進出する国内外の企業を対象に、所得税などの各種税を原則的に20年間免除する事実上の「経済特区」とする法案に署名し、発効させた[115]。
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