北方領土問題 関係史(ソ連の実効支配から)

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北方領土問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 17:22 UTC 版)

関係史(ソ連の実効支配から)

日本の返還運動の発端

ソビエト連邦時代

スターリン - GHQ時代

  • 1946年(昭和21年)
    • 1月29日連合国最高司令官司令により、「千島列島、歯舞群島、色丹島」などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止された[* 3][21](SCAPIN-677)。これらはソビエト連邦の行政管轄区域となった
    • 2月2日:ソビエト連邦最高会議が、サハリン(南樺太)およびクリル諸島(千島列島)を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言した南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令、ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。同地域はソ連の南サハリン州として新設され、ロシア共和国ハバロフスク地方へと編入された[17][71]
      • 当時、樺太島の南部(北緯50度以南)に住んでいた日本国民は1945年8月時点で約40万人だったが、彼らはソ連の占領下で生活することになり、技術者を中心とする彼らの多くがそのまま職場にとどまらざるを得なかった。
      • 南樺太には日本からの米の供給が途絶えたことから、ソ連は旧満州国から大豆、北朝鮮から米を移入し、日本人への配給にあてた。一方、林業などのために北朝鮮からの朝鮮人労働者も南樺太へ送られるようになった。
    • 2月11日:ヤルタ会談における極東密約(ヤルタ協定)が公開された。
    • 北方領土には日本国民は約1万7000人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
    • 12月:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)とソ連との間で捕虜となっていた日本国民の引き上げ(「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」)が合意され、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した[* 8]
  • 1951年
    • 9月8日:日本は連合国諸国とサンフランシスコ平和条約を締結したことにより、多くの国々との戦争状態が正式に終結して国家主権を認められた。
    • 同条約において、日本は朝鮮半島台湾、南樺太、そして千島列島などの領有を放棄した[11]。当時の平和条約国会で、日本政府はヤルタ協定のいう「千島列島」の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している [22][23][24]。しかし、この説明は5年後の1956年2月に取り消され、以後の同政府は「国後島と択捉島は千島列島に含まれず、日本が放棄した対象ではない」と主張している[26][28]
    • ただし、ソビエト連邦はこのサンフランシスコ平和条約に調印しなかった(背景にはアメリカ合衆国との冷戦があった)[31][32]。以後、同連邦を継承したロシア連邦もこの条約に調印していない[32]

フルシチョフ - 自民党時代

  • 1953年(昭和28年)
    • 10月:アメリカ軍情報部無線局から国後島の飛行場調査を命じられた日本人2人が現地へ潜入。ソ連側の警備兵と銃撃戦となり1人が死亡、1人が逮捕。逮捕された者は軍事裁判懲役25年の刑を命じられたものの1956年に解放され帰国を果たした。事件は秘匿されたが、1968年にソビエト連邦側から事件の内容が情報公開された[72]
  • 1956年 戦後の両国間交渉
    日ソ交渉に先立って、サンフランシスコ条約起草国である米国や、英国、フランスに対して、同条約中、放棄した千島の範囲について問い合わせをした[いつ?][誰?]
    米国は北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならないと国務省の覚書として明文化された公式見解を示し、日本の立場を支持している。
    しかし、英・仏からは日本に好意的な回答は得られなかった。フランスからは、サンフランシスコ会議議事録において日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起するとの回答があった。
    平和条約の締結交渉については、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島の「譲渡」で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、結局日ソ平和条約は締結されなかった。平和条約の締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ「共同宣言」で決着した[73]
    日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係が回復。日本とソ連は1956年12月7日、日ソ共同宣言の批准書を交換し、日ソ共同宣言は同日発効した。
  • 1957年
    • ソ連国境警備隊が貝殻島(北方領土のうち最も北海道本島に近い)に上陸した。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった[* 9]
  • 1960年
    • 岸信介内閣が日米安全保障条約の改定(アメリカ軍が以後も日本に駐留し続けることを約束した)を行ったことに対してソ連が反発した。
    • ソ連政府は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」であるとし、両島を引き渡すためには新たな条件(在日米軍をふくむ外国の軍隊が日本から撤退すること)を付けることを要求した[73]
    • 日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったことを指摘し、国際約束である日ソ共同宣言の内容を一方的に変更することはできないと反論した[73]
  • 1962年(昭和37年)
    • 3月9日:日本の衆議院本会議において、「沖縄・小笠原施政権回復決議」とともに、「北方領土回復決議」が採択された[74][75][76]
  • 1964年
    • 7月10日中華人民共和国(中国)共産党主席毛沢東が、北方領土問題に関して日本を支持する考えを示した[77][78][79]
      • 毛は中国を訪問した日本社会党の訪中団に対し、ソビエト連邦について「とにかく自分の領内に入れることのできるところは、残らず自分の領内に入れようというのです。」などとしたうえで、「われわれはまだ彼らとの間に、決算が終わって(原文ママ)いないのです。ところで、皆さんの千島列島についてですが、われわれにとって、それは別に問題ではありません。皆さんに返還すべきだと思います。」と述べた[77][78][79]
  • 1966年8月21日:釧路地検が国後島ケラムイ岬沖でホタテガイを密漁していた漁船の船主らを漁業法に違反するとして起訴。船主側は「外国の領海で操業したのだから、日本の漁業法は適用されない」として争うこととなった。一審では「国後島に日本の統治権は及んでいない」として船主側に無罪が言い渡されたが、二審では「漁業法は統治権が及ぶか否かに関わらず、我が国の水産資源と漁民保護の立場から、無許可操業した場合全ての海域に適用される」として船主側が敗訴。船主側は最高裁に上告したが、1970年10月1日に棄却された[80]

ブレジネフ - 自民党時代

  • 1970年
    • 11月11日:ソ連の在日ソ連臨時代理大使オコニシニコフが、日本の外務事務次官・森に対して北方領土に関する対日口頭声明を行った[81][82]
    • 11月17日:森がオコニシニコフに対し、先の声明に対する回答を口頭で行った(対ソ回答)[81][82]
  • 1972年
  • 1973年
    • 日本の田中角栄首相が訪ソし、ブレジネフ書記長と会談した。日ソ共同声明において、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する」ことが合意された。ブレジネフは、北方四島の問題が「未解決の諸問題」の中に含まれることを口頭で確認した[73]
  • 1981年(昭和56年)
    • 2月7日:日本で北方領土の日が制定された。以後、毎年2月7日を「北方領土の日」としている。

ゴルバチョフ - 自民党時代

共同声明に署名した海部俊樹ゴルバチョフ(1991年4月18日・赤坂迎賓館
  • 1991年
    • 4月:ソ連のゴルバチョフ大統領が訪日した。日ソ共同声明において、ソ連は北方四島の名前を具体的に書き、「領土画定の問題が存在する」ことを初めて文書で認めた[73]
    • 12月:ソビエト連邦が解体された。その領土の大部分はロシア連邦として独立し、以後はロシア連邦が本領土問題を引き継いだ。

ロシア連邦時代

エリツィン - 細川時代

東京宣言に署名した細川護熙エリツィン(1993年10月13日・赤坂迎賓館)
  • 1993年
    • 10月:日本の細川護煕首相とロシアのエリツィン大統領が会談した。東京宣言(第2項)において、北方四島の島名を列挙した上で、「領土問題を、北方四島の帰属に関する問題であると位置付け、」「四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常化するとの手順を明確化し、」「領土問題を、歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書、及び、法と正義の原則を基礎として解決する」との交渉指針を示した[73]
    • 同時に、日本とソビエト連邦との間の全ての条約その他の国際約束が、日本とロシアとの間で引き続き適用されることを確認した。さらにエリツィン大統領は、「日露間での有効な国際約束には1956年の日ソ共同宣言も含まれる」と発言した[73]

エリツィン - 橋本時代

会談時に橋本龍太郎とエリツィン(1998年4月18日・川奈ホテル
  • 1997年
  • 1998年
    • 4月:両国は川奈での首脳会談で「平和条約が、東京宣言第2項に基づき四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21世紀に向けての日露の友好協力に関する原則等を盛り込むものとなるべきこと。」と合意した(川奈合意)[73][84]

エリツィン - 小渕時代

会談時に小渕恵三とエリツィン(1998年11月14日・クレムリン
  • 1998年
    • 11月:日本の小渕恵三首相が訪露し、両国はモスクワ宣言において「東京宣言、クラスノヤルスク合意および川奈合意を再確認し、国境画定委員会および共同経済活動委員会の設置を指示」した[73]

プーチン - 時代

  • 2000年
    • 9月:ロシアのプーチン大統領が訪日し、両国は「平和条約問題に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の声明」において「クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続すること」と「これまでの全ての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を策定するため交渉を継続すること」を確認した。またプーチンは「56年宣言は有効であると考える」と発言した[73]
      • プーチンは2年前の川奈提案(平和条約によって四島の帰属の問題を解決する)は日本側の「勇気と熟慮の成果」であったと述べながらも、「妥協についての我々の考え方と完全には一致していない」として、帰属問題の解決については拒否した[73]
  • 2001年
    • 3月:両国はイルクーツクで首脳会談を行い、イルクーツク声明において「56年日ソ共同宣言を交渉プロセスの出発点と位置付け、その法的有効性を文書で確認」し、「その上で、東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するとの日露共通の認識を再確認」した[73]

プーチン - 小泉時代

  • 2003年
    • 1月:日本の小泉純一郎首相が訪露し、両国は共同声明において、両首脳の間で四島の帰属の問題を解決し、平和条約を可能な限り早期に締結し、もって両国関係を完全に正常化すべきとの「決意」を確認した。また「日露行動計画」において、56年日ソ共同宣言、93年東京宣言、2001年イルクーツク声明の3文書が具体的に列挙され、その他の諸合意と併せ、今後の平和条約交渉の基礎とされた[73]

メドベージェフ - 菅直人時代

  • 2010年
    • 7月:中華人民共和国の国家主席(総書記)である胡錦濤の働きかけもあり、ロシアは日本が第二次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を「終戦記念日」に制定した[85]
    • 11月1日:ロシアのメドヴェージェフ大統領が北方領土の国後島を訪問した。同国のラブロフ外相は、「ロシアの大統領がロシアの領土を訪問した」のみであると主張した。一方で「日ロ間の協力を困難にする一歩を踏み出すつもりはない」とも述べた。この前日に同外相は「ロシア大統領は恒常的にロシアの行きたいところに行く」と述べ、日露関係には「いかなる関連もない」と主張していた[86]
    • 11月1日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補は記者会見の席上で、ロシアのメドヴェージェフ大統領が国後島を訪問したことに関し「北方領土に関して、アメリカは日本を支持している」と述べた[87]
    • 11月2日:アメリカのクローリー国務次官補は記者会見の席上で、「アメリカは北方領土に対する日本の主権を認めている」としたうえで、北方領土に日米安全保障条約が適用されるかについて、「現在は日本の施政下にないため、第5条は適用されない」と述べた[88]
  • 2011年
    • 2月11日:ロシアのラブロフ外相は日露外相会談を受けた記者会見で、北方領土の開発に「中国や韓国など(第三国)の投資を歓迎する」と述べる[89]
    • 5月24日:韓国から、竹島(独島)の領有権確保を目指す「独島領土守護対策特別委員会」の韓国議員3人が国後島を訪問した。この訪問予定を知った日本政府は遺憾の意を示していたが、同議員らは「韓国国会議員の行動にあれこれと言ってくるのは失礼な態度だ」とし、訪問目的を「日本との領有権問題がある地域の支配・管理状況の視察」とした[90][91]

プーチン - 安倍時代

  • 2013年
    • 4月:日本の安倍晋三首相が訪露し、両国は共同声明において、「戦後67年を経て日露間で平和条約が存在しないことは異常である」との認識を共有し、「双方の立場の隔たりを克服して、2003年の共同声明及び行動計画において解決すべきことが確認されたその問題(四島の帰属の問題)を最終的に解決することにより平和条約を締結する」との合意を表明した。また「平和条約問題の双方に受入れ可能な解決策を作成する交渉を加速化させるとの指示を両国外務省に与える」ことで一致した[73]
  • (2014年 クリミア危機ロシアによるクリミアの併合
  • 2016年
    • 12月:ロシアのプーチン大統領が訪日し、山口県長門市で首脳会談を行った。両首脳は「北方四島において特別な制度の下で共同経済活動を行うための協議の開始」に合意するとともに、 「元島民らによる墓参り等のための手続きを改善する」ことで一致した[73][92]
  • 2018年
    • 9月:プーチンはウラジオストクでの東方経済フォーラムで、安倍に「年末までに前提条件なしで平和条約を結ぼう」と提案し、領土問題の先送りを示唆した[93]
    • 11月:両国はシンガポールで首脳会談を行い、「1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」ことで合意した[73]
      • 安倍は日本が従来主張してきた「4島の返還」を求めることをやめ、「歯舞・色丹の2島の返還」へと要求を引き下げた[93]
  • 2019年
    • 2月7日:日本は「北方領土の日」となる同日に毎年恒例の「北方領土返還要求全国大会」を東京都内で行ったが、登壇した内閣総理大臣安倍晋三は、通例であった「北方四島の帰属の問題を解決する」などという表現を行わなかった。さらに外務大臣河野太郎も前年に用いた「北方領土はわが国固有の領土だ」という表現を行わなかった。そして大会で採択されたアピールでも、通例であった「(北方領土がロシアに)不法に占拠され」という表現は行われなかった[94]
    • 同2月7日:ロシアのマスメディアは上記発言について、国営のロシア通信が「東京で開かれた『北方領土』返還を求める大会で、(日本側が)『不法占拠』という表現を放棄した」「日本の大きな譲歩だ」などと報じた。また同じく国営のロシアテレビの東京特派員は「安倍総理大臣は厳しい表現を控えた。これまでは『不法占拠』や『四島返還』といったことばが必ず使われていたが、今回はなかった」と中継で伝えた[94]
    • 2月8日:日本の参議院議員小西洋之[* 10]が、日本政府に対して「安倍内閣は『北方四島は日本固有の領土である』との表現による国会答弁をかたくなに拒否している。北方領土は日本の領土なのか」と質問を行った。政府は「ロシア政府との今後の交渉に支障を来すおそれがあることから、お答えすることは差し控えたい」と答弁した。
      • 他の質問に対しては、政府は「交渉の対象は、北方四島の帰属の問題であるとの一貫した立場だ」と答弁した[95]
    • 5月11日:北方領土へのビザなし交流に参加していた衆議院議員丸山穂高日本維新の会)が、国後島の宿舎『友好の家』での懇談会の最中、元島民で訪問団長の大塚小弥太へ対して「ロシアと戦争で(北方領土を)取り返すのは賛成か反対か」と質問した。大塚は「戦争なんて言葉を使いたくない」と述べたが、なおも丸山は「戦争をしないと取り返せない」などと発言した[96][97]
      • このとき丸山は飲酒しており、訪問団員らの静止を聞かずに大声で騒いだほか、「これから外出して女を買いに行く」などとも発言していた[98]
      • 翌12日:丸山は団員らから謝罪を求められ、口頭で詫びた[98]
      • 13日:ロシア上院の国際問題委員長のコサチョフは「最低だ。そうした発言をするのは問題の解決を望まない人物だけだ」と批判した[99]
      • 14日:日本維新の会は丸山を除名処分にした。日本の官房長官菅義偉は「誰が見ても不適切だ」と批判し、外務大臣河野太郎も「このような発言、行動は決してプラスにならない」と批判した[99]
    • 6月22日:大阪で開催されるG20とそれに合わせ29日に行われる日露首脳会談に先駆けて、ロシアのプーチン大統領は国営放送のインタビューに「北方領土を日本に引き渡す計画はない」と答えた[100]
    • 9月5日:ロシア・ウラジオストクで開催された『東方経済フォーラム』で、安倍が日本とロシアとの平和条約の締結を訴える演説を行った。
      • その中で安倍は「ウラジーミル(プーチンのファーストネーム)。君と僕は、同じ未来を見ている。」「ゴールまで、ウラジーミル、二人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか。」などと発言し[101]、物議を醸した[102][103]
      • 一方でプーチンは否定的な見解を示し、「優しい言葉にピストルを添えれば、優しい言葉だけの場合よりもっと多くを得られる」などと発言した[102]
  • 2020年
    • 2月7日:日本の東京で開催された『北方領土返還要求全国大会』で、北方四島について「不法に占拠されている」という表現が用いられなかった。前年に続いて2年連続での不採用となった[104]
    • 7月4日:ロシア憲法の改正に伴い、同憲法に「ロシア領土の割譲を禁止」する内容が明記された。さらに同国の刑法も改正によって「領土割譲禁止に違反した者には最大10年の刑」「領土割譲を呼びかけた者にも最大4年の刑」が記載された[105]。これにより北方領土交渉は事実上完全無効化した。
      • これに先立ち、7月2日に国後島に『憲法改正記念碑』が建立された。プーチン大統領は、「このテーマ(南クリルが完全なロシア領であるという事)が特に重要なロシアのある地域の住民が、鉄筋コンクリートで記念碑を設置した。記念碑は『改正憲法は鉄筋コンクリートのように堅固であるべきだ』との提案に沿ったものだ」と述べた[106]
      • 同じく7月2日には、ロシア外務次官イーゴリ・モルグロフが「日本と島々に関する交渉はしていない」と述べた。
    • 9月3日:ロシアは「第2次大戦終結の日」(事実上の対日戦勝記念日)を記念する対日戦勝75周年式典を、北方四島の国後島、択捉島、また色丹島の3島で実施した[105]

プーチン - 菅義偉時代

  • 2020年
    • 9月29日:日本の菅義偉首相とロシアのプーチン大統領が電話会談を行い、「1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」ことを改めて合意した[73]。一方、同日にロシアは北方領土を含む地域で軍事演習を行った[105]
    • 10月:ロシアは千島列島での軍事演習用のミサイルシステムの配備を計画していると述べた[107]。南クリル(北方四島)の防衛力強化のため、最新型の主力戦車T72B3の配備を開始した[105]
    • 12月1日:ロシア国防省Zvezdaテレビ局は、ロシアが択捉島での戦闘任務のためにS-300VMミサイルシステムのいくつかの重砲S-300V4バージョンを配備したと報告[107]。この射程は400 kmで、北海道東部の上空も射程に収める[105]択捉島にすでに短距離対空ミサイルシステムが配備されていたことも確認された[107]
  • 2021年
    • 1月20日:アメリカ大統領ジョー・バイデンが就任した。
    • 2月:ロシアのプーチン大統領が「日本との関係は発展させたいが、ロシア憲法に違反することは何もするつもりはない。」と述べた。
      • 日本の著述家の亀山陽司は、「これは『ロシア領土の割譲を禁止』した条項を指している。この条項では例外規定として国境画定交渉を認めているが、この発言は、北方領土交渉は国境画定交渉ではない(つまり例外にはあたらず憲法違反である)ということを示唆している」と推測した[108]
    • 2月7日:日本の東京で開催された「北方領土返還要求全国大会」で、北方四島について「法的根拠のないままに75年間占拠され続けている」と主張するアピールを採択した。2年間使われていなかった「不法占拠」という文言を事実上復活させた[104]
    • 8月19日:1人のロシア人男性が、4島の国後島から北海道本島へ海を泳いで渡航し、日本の当局に保護・拘束される事件が起こった[109][110][111]

プーチン - 岸田時代

  • 2022年
    • 2月7日:アメリカ合衆国の駐日大使であるラーム・エマニュエルが、「(アメリカは)北方四島に対する日本の主権1950年代から認めている」「北方領土問題で日本を支持する」と話す動画を Twitterに投稿した[113][114]
      • 同時に「ロシアによる他国の主権軽視は北方領土に限ったことではない」「北方領土、クリミアウクライナ東部にいたるまで、侵略者が誰なのかは明らかだ」とロシアを批判した[113]
    • (2月24日 ロシアによるウクライナへの侵攻
    • 3月9日:プーチン大統領は、北方領土と千島列島に進出する国内外の企業を対象に、所得税などの各種税を原則的に20年間免除する事実上の「経済特区」とする法案に署名し、発効させた[115]






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