死刑廃止論の系譜
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死刑が正当な刑罰かという問題は16世紀以降論争となり、トマス・モアの『ユートピア』(1516年)や、トーサンの『道徳論』(1748年)などに死刑反対の考えが現れている。しかし社会思想としての死刑廃止論の嚆矢となったのは、イタリアの啓蒙思想家チェーザレ・ベッカリーアであり、彼はルソーの影響のもと、社会契約を根拠に死刑を否定したことで知られる。 ベッカリーアは『犯罪と刑罰』(1764年)において、「どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由-あらゆる財産の中でもっとも大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろうか? …人間がみずからを殺す権利がないのなら、その権利を他人に、-たとえそれが社会にであったとしても-ゆずり渡すことはできないはずだ。」と述べている。すなわち、社会契約の当事者である国民は、自分の生命を放棄するような約束を予め結ぶということはありえないのだから、死刑制度は無効であり、(国家の平時においては)廃止すべきというのがその趣旨である。また彼は、刑事政策上の理由からも反対論を述べ、死刑が抑止効果において終身刑に劣るものだと主張した。「刑罰が正当であるためには、人々に犯罪を思い止まらせるに十分なだけの厳格さをもてばいいのだ。そして犯罪から期待するいくらかの利得と、永久に自由を失うこととを比較判断できないような人間はいないだろう」。さらに彼は、死刑が残酷な行為の手本となり社会的に有害でもあるとも述べている。 『犯罪と刑罰』は当初匿名で出版されたが、ただちに大きな論議を巻き起こした。その背景には、当時のヨーロッパにおける刑事法が一般に抑圧的であり、その運用も恣意的だったことがあると考えられている。司法原則としての法の下の平等は事実上存在せず、犯罪者の社会的地位や縁故・人間関係がもっとも処遇を左右したと言われる。こうした状況一般への人々の不満もあり、『犯罪と刑罰』は翻訳されてヨーロッパ各地で読まれ、のちの立法と刑法思想に多大な影響を与えた。ちなみに、ベッカリーアの思想を最初に実現したのは、トスカーナ大公国の啓蒙専制君主レオポルド1世大公(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)である。レオポルドは即位した1765年に死刑の執行を停止し、1786年には死刑そのものを完全に廃止した。 この時代には他にも、ディドロ『自然の法典』(1755年)、ゾンネンフェルス(1764年の論文)、トマソ・ナタレ『刑罰の効果及び必要に関する政策的研究』(1772年)等が死刑の刑罰としての有効性に疑問を述べ、廃止を主張している。 19世紀には文学の領域で死刑廃止の声があがりはじめ、ヴィクトル・ユゴーの『死刑囚最後の日』(1829年)が反響を呼んだ。またロマン派の詩人で政治家のラマルティーヌが廃止を主張し、ドストエフスキーの『白痴』(1868年)、トルストイ(『戦争と平和』1865年 - 1869年)なども作品中に死刑を取りあげて、廃止論に影響を与えた。 イギリスの社会改革主義者であったベンサムは、刑罰学においてはパノプティコンの考案者として知られる。彼は死刑に関して、功利主義的立場からプラス面とマイナス面とを比較検討した。ベンサムによれば、死刑の戒めとしての効果や人々による支持といったプラス面よりも、死刑が犯罪者による被害者への賠償を不可能にすることや、誤判による死刑の回復不可能性といったマイナス面の方が大きいとされる。ベンサムはこうした比較により、死刑より終身労役刑の方が社会にとっての利益が大きいと結論づけ、死刑廃止を主張した。 ドイツのフランツ・フォン・リストは、ロンブローゾら「イタリア学派」のとなえる生物学的観点のみによる犯罪原因説を否認し、そこに社会学的視点を加え、さらに刑法における目的思想を重要視した。すなわち応報刑では犯罪を抑止できないと考え、法益保護と法秩序の維持を目的とし、社会を犯罪行為から防衛しながら犯罪者による再度の犯罪を予防することを重視する。リストとその弟子達はここから目的刑という新しい刑法学の体系を生み出し、近代学派(新派)の理論を完成させた。応報刑の旧派と目的刑の新派の対立は現代まで続いているが、目的刑を取る刑法学者は通常は死刑廃止を主張している。 20世紀になると、またリストに学んだモリッツ・リープマンとロイ・カルバートが死刑廃止を主張した。リープマンはカール、フィンガーらと死刑存廃をめぐって論争し、死刑は犯人を法の主体として認めず、単に破壊の客体として扱うことを問題として指摘した。エドウィン・H・サザーランドや『合衆国における死刑』(1919年)を書いたレイモンド・T・ブイも死刑廃止を唱えた。作家のカミュ(『ギロチン』1957年)も死刑に反対している。 キリスト教的な立場からは、19世紀初頭にフリードリヒ・シュライアマハー(シュライアーマッハー)が、20世紀にはカール・バルトらの神学者が国家の役割を限定するという立場から死刑廃止を主張した。バルトによれば、刑罰を基礎づける理論は通常、犯罪者の更生、犯罪行為の償い、社会の安全保障、の何れかに収まるが、死刑は何れとも齟齬をきたす。死刑はまず「犯罪者の更生」を放棄するが、社会には、その構成員を秩序へと呼び戻す努力をする義務があるとバルトは言う。第二に、「犯罪行為の償い」とは、神の応報的正義の地上的・人間的表現である。しかしあらゆる人間の過ちに対する神の応報的正義は、バルトによれば、キリスト教ではイエスの死をもって終わっており、刑罰は生を否定しないものでなければならない。そして「社会の安全保障」については、犯罪者の抹殺は社会を自己矛盾に陥れるとバルトは述べる。すなわち、社会制度はつねに暫定的・相対的なものとして修正可能性を担保すべきであり、死刑においてはそうした可能性が排除されるため、社会はむしろ市民の安全を侵害する可能性を常にはらむことになる。こうしてバルトは一国の制度としての死刑には反対するが、その他方で特殊な条件下での死刑を擁護している。バルトの主張によれば、戦時下での売国行為と国家を危機に陥れる独裁者(ヒトラーを念頭に置いている)の二者に関しては、限界状況にある国家の正当防衛という理由から、死刑(犯罪者の殺害)は「神の誡めでありうる」とされる。 近年では、ジャック・デリダが死刑廃止論の思想的検討をしている。デリダによれば、死刑とは刑法の一項目にとどまらず、法そのものを基礎づける条件でもある。それは死刑が元々、主権の概念と深い関わりをもっているからである。シュミットによれば、主権はかつての宗教的権威から国家へと受け継がれたが、これは法の上位にあって例外状態を決定し、(恩赦のように)法を一時停止する権限であり、生殺与奪の最高の権限でもある。廃止論に立つには、こうした主権そのものを問題にする必要があると、デリダは言う。現在の死刑廃止論は、彼によれば政治的に脆弱である。まずベッカリーアにならって戦時の例外を認めるタイプの廃止論は、今日的な状況に太刀打ちできない。何故なら、たとえば戦争とテロとの境目があらかじめ明確でないような状況では、緊急時と平常時の境界線も恣意的に引けるからである。同じくベッカリーア由来の、死刑は抑止力がないから廃止すべきだという主張も、限られた説得力しか持たない。こうした功利主義的な主張は、「法を犯した者は罰せられるべきだから罰せられるべきなのだ」といった、人間の尊厳に訴えるカント的な定言命法を乗り越えられないからである。国際機関による決議や提言も、上記のような国家の主権原理や例外問題の前でつねに頓挫している。こうした点から、これまでの廃止論の言説は大幅に改善していく余地があるとデリダは述べている。 死刑制度の存続賛成派は、その目的として犯罪を予定する者への威嚇効果、つまり(殺人などの凶悪事件)犯罪抑止ないし犯罪抑止力。または人権を剥奪された被害者ないしその遺族の救済(つまるところ報復の代行)などを根拠に死刑を維持 すべきとする。また、死刑制度の廃止派はたとえ人命を奪った凶悪な犯罪者であっても人権はあり、死刑そのもの自体が永久にこの世から存在を抹殺する残虐な刑であり、国家による殺人を合法的に行うことであり是認できない、刑事裁判の誤判による冤罪による処刑を完全に防ぎきれない、などを根拠に廃止すべきと主張する。 現在に至るまで、死刑存置論と死刑廃止論をめぐっては激しく対立しているが、どちらの主張が正しいかを客観的に判断することは誰にもできない問題である。また論理的でない感情論も場合によっては入るため、現実として問題の解決はありえないかもしれない。そのため、死刑制度を存続するにしても廃止するにしても、法学のみならず、死刑制度の存在をどのように見るかで大きく変わるものであり、そのため法学のみならず思想的かつ宗教的な問題や哲学など様々な主義主張が交錯しており、犯罪被害者ないし犯罪者双方の人間の生命についてどう考えるかという根本的な課題 であるといえる。 近年ではイスラム教徒によるテロが相次いだことを背景として、「死刑復活論」という新たな運動がある。
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