木製の建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:39 UTC 版)
フィンランドの建築様式では主に木製であることが特徴になっている。知られている中で最古の住居構造はコタ(Kota)またはゴアハティ(英語版)と呼ばれる、布、泥炭、コケ、木材で覆われた小屋またはテントである。コタは19世紀までフィンランドで使われ続け、現代でもラッピ県に住むサーミ人が使っている。サウナもフィンランドの伝統的な建物であり、フィンランドで知られている最古のサウナは斜面で掘った穴から作られ、冬には住居として使われた。フィンランドにおける最初期のサウナは現代ではサヴサウナ(フィンランド語版)(スモーク・サウナ)と呼ばれている。現代のサウナと違い、サヴサウナでは窓がなく、6から8時間をかけて大量の木を燃やしてキウアス(Kiuas)と呼ばれた積み石を加熱し、続いて煙を逃がすためにハッチを開けた後、部屋に入ってサウナの蒸気(ロウリュと呼ばれる)による熱を楽しむ。 木製建物の伝統はフィンランドのコタに限らず、先史時代以降の北方針葉樹林地帯全体でよく見られる。木製の構造が成功した原因は角を繋げるテクニックにある。すなわち、丸太を横方向に一本ずつ置いた後、丸太の末端に切り目を入れて堅く安全な継ぎ目を作る、というテクニックである。この技術の起源は不明だったが、紀元前1世紀には北ヨーロッパのローマ人がこの技術を使っており、また現ロシアにあたる地域が起源である可能性もあり、さらに東ヨーロッパ、近東、イラン、インドのインド・アーリア人の間でよく使われているという説もある。この技術の発展には工具が必要であり、主にのこぎりではなく斧を必要とした。結果として、建物は長方形になり、内部空間は部屋が1つだけで屋根は傾斜のゆるい切妻造となる。これは古代ギリシアの大広間形式メガロンと同じ起源となっている。フィンランドでの使い道はおそらく最初は倉庫として、続いてサウナとして、最後には住処としてであろう。角を繋げるテクニックが使われた最初の例では丸い丸太が使われたが、すぐに発展形として斧で削った四角い丸太が使われるようになり、継ぎ目をより確実に作るとともに断熱を改善した。のこぎりで切るよりも斧で切るほうが良いとされたが、これは斧による断面では水漏れがより少ないためだった。 歴史家によると、木製建物の根本となる仕組みはほかの地域からフィンランドにもたらされた可能性があったが、フィンランドにはトゥキピラリキルッコ(フィンランド語版)(「ブロックの柱の教会」)という独特な木製建築がある。見た目は普通の木製教会と似ているが、丸太で作られた空芯の柱が外壁に作りこまれているため、壁自体は構造上は不必要である。柱は身廊を通る大きな梁で繋がれている。一般的には壁の一面に柱が2本あるが、3本の場合もある。現存のトゥキピラリキルッコのうち規模が最も大きいのはトルニオ教会(フィンランド語版)(1686年)であり、ほかにはヴォユリン教会(フィンランド語版)(1627年)、テルヴォラの教会(フィンランド語版)(1687年)などがある。 後期の発展では主に都市でおきており、丸太で作られたフレームがさらに木の厚板で覆われるようになった。よく見られるファル赤(英語版)の顔料(Punamulta、95%までの酸化鉄を含み、タールと混ぜることが多い)が塗られるのは16世紀以降との仮説が立てられている。木製建築のテクニックであるバルーン構造は北米で広く使われたが、フィンランドにもたらされたのは20世紀のことだった。フィンランドの建築家はアメリカまで旅行して架構式構造の工業化を視察、それを業界誌で称えた。アメリカで使われたような木製フレームを使う試みは行われたが、初期にはあまり人気が出なかった。その一因としては薄い建築による断熱の悪さがある(1930年代に断熱材が追加されたことで改善した)。またフィンランドでは木材も労働者も安かったことも大きい。しかし、第一次世界大戦の勃発によりこのような工業化された建造手法が普及した。もう1つのより新しい「輸入」としては19世紀初期に導入された、木製のこけら板を屋根に用いる手法である。それまでの伝統的な手法はシラカバの樹皮を屋根に用いて(英語版)おり、木製のスラットを底にしてその上を数層のシラカバの樹皮で覆い、更にその上を木製の棒で1層重ねていた。この屋根は伝統的には塗装されていない。乾留液は鉄器時代に北欧で産出されたもので木製の船を密封するために使われていたが、後に流用されて屋根の樹皮をコーティングするのに使われるようになった。 フィンランドの伝統的な木製建物は主に2種類に分けられている。 フィンランド東部でよくみられる、ロシアの影響を受けたもの。例えば、ペルティノツァ(Pertinotsa)という農家(ヘルシンキのセウラサーリ島(英語版)で現存)において、居所は上の階にあり、納屋や物置は下の階にあり、屋根裏には干し草置き場がある。 フィンランド西部でよくみられる、スウェーデンの影響を受けたもの。例えば、アンティ(Antti)という農舎(元はサキュラ(英語版)にあったが現代では同じくセウラサーリ島に現存)では中心となる農家の庭の周りに個々の木製建物がある。伝統的には建築の順番はまずサウナであり、その次は家族が料理、飲食、就寝する主屋の居間(tupa、「メインルーム」の意味)が作られる。夏には屋外で料理し、納屋で寝ることを選ぶ家族もいたという。 木製建物がより洗練されたものに発展したのは教会の建築が理由だった。初期の例は建築家による設計ではなく、建築請負師による設計であり、彼らは設計した後にそのまま建物を築いた。現代で知られている一番古い木製教会の1つはノウシアイネン(英語版)のサンタマラ({{{2}}}、遺跡のみ現存)であり、12世紀に約11.5 m x 15 m四角の面積で建てられた。フィンランドで現存する木製教会のうち最古のものは17世紀までたどることができる(一例としては1689年にラップランドで建てられたソダンキュラ旧教会(Sodankylä)がある)。全ての木製建物と同様に火に弱いため、中世の教会で現存するものはない。実際、17世紀の木製教会ですら16軒しか残っておらず、現存しない木製教会の一部はより大きい石造教会を建てるために取り壊された。 木製教会の設計が中央ヨーロッパ、南ヨーロッパおよびロシアの教会の設計から影響を受けたことが明らかであり、ギリシャ十字形の教会堂となっている上にゴシック建築、ロマネスク建築、ルネサンス建築の要素が含まれている。しかし、これらの影響は主にスウェーデンを経由してもたらされたものである。フィンランドの木製教会の発展は主に設計図の複雑さ、大型化、細部の改良で見られている。フィンランドで保存状態が最もよく、変更された箇所が少ない木製教会はソダンキュラの旧教会(1689年頃)である。ソダンキュラの旧教会はシンプルで塗装されていない両切妻屋根を持つ13 m x 8.5 mの長方形の建築となっており、壁の高さは3.85 mで平民の住処のような形となっている。一方、1765年に建築請負師ヤーッコ・クレメンティンポイカ・レッパネン(フィンランド語版)が建て、1821年にその孫エルッキ・レッパネン(Erkki Leppänen)が鐘楼と聖具室を付け加えたペタヤヴェシの古い教会(世界遺産に登録されている)は外壁では同じく塗装されていないものの、十字形となっている設計はより洗練されており、十字型の両翼が同じ大きさで建築の大きさは18 m x 18 mとなっている。また高さ13 mの木製アーチ形天井があり、教会の内装は木製の建築では珍しい大きな窓があるため柔らかな光で照らされており、独特な雰囲気になっている。 ギリシャ十字形の教会堂となっているペタヤヴェシ教会が建てられた時点でもフィンランドではさらに複雑な建築が存在していたが、その後は更に複雑化していった。いわゆる「双十字形」の建築がフィンランドで最初に建てられたのは恐らく棟梁ヘンリク・シュールツ(Henrik Schultz)が建てたハミナ(英語版)のウルリカ・エレオノーラ教会(Ulrika Eleonora、1731年建築)だった。それが1742年に焼失した後はアルヴィ・ユンカリネン(Arvi Junkkarinen)の手によりエリサベト教会(Elisabet、1748年-1751年建築、1821年破壊)として再建された。この双十字形の建築では十字形の内側の角が拡張され、以降の教会のモデルとなった。例えば、ミッケリ教会(Mikkeli、1754年建築、1806年破壊)、ラッペー教会(Lappee、ユハナ・サロネン(Juhana Salonen)により1794年に建築)などがある。このうちラッペー教会は双十字形をさらに発展して翼廊が先細りになっているほか角がそがれており、ルオヴェシ教会(Ruovesi、1776年建築)でも同じような特徴がみられている。歴史家ラルス・ペッテルソン(Lars Pettersson)の意見ではフランス出身の建築家ジャン・ド・ラ・ヴァレー(英語版)により1724年にストックホルムで建てられたカタリナ教会(英語版)はハミナの教会のモデルとなっており、その後の発展もそれに倣うものであるという。 中世のフィンランドでは6つの町しかなく(トゥルク、ポルヴォー、ナーンタリ、ラウマ、ウルヴィラ(英語版)、ヴィープリの6か所)、いずれも石造の教会または城塞の周辺に木製建築が有機的に発展した形となっている。歴史家のヘンリク・リリウス(Henrik Lilius)によると、フィンランドにおいて木製建築が主となっている町は平均で約30から40年毎に火事で焼け落ちるという。毎回再建されるときは火事の前と全く同じようになることはなく、火事による被害は同時代の建築の習わしに合うよう新しい市街を建築する機会を与えた。このような習わしには新しい形状の建築、よりまっすぐで広い街道、建物を石造にする命令(ただし、この命令は無視されることが多い)、防火線として建物の間に緑地をもうけることなどがある。頻発する火事の結果、木造の市街地で現存するものは主に19世紀の建築となっている。例えば、オウルは1605年にスウェーデン王カール9世により中世の城塞の側で成立、同時代の町と同じように有機的に発展した。1651年、クラエス・クラエソン(Claes Claesson)は中世的な町と教会の立地を維持しつつ碁盤の目状となっている道路を設計したが、その後は火事が頻発(中でも1822年と1824年の大火が重要である)、都市計画の規制が厳しくなっていったため新しい都市計画では道路を広くして、防火線も設定した。中世以来の6町のうちポルヴォーのみが中世からの市街図を維持した。 トルニオの教会、1686年建築。 ソダンキュラの古い教会、ラップランド、1689年頃建築。 ペタヤヴェシの古い教会、1765年建造。鐘楼は1861年建造。 ペタヤヴェシの古い教会の内装。 ハミナ(英語版)のエリサベト教会、「双十字形」建築、1748年-1751年。1821年破壊。 ラッペー教会、1799年建築。 ラッペー教会の「双十字形」建築。 ポルヴォー旧市街の聖堂と木製建築。 1620年に成立したトルニオの町。1716年に出版された、エリク・ダールベルグ(英語版)による古代と現代スウェーデン(英語版)より。 1827年の大火以前のトゥルク大聖堂。
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