日本でのデモ
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日本にデモンストレーションという言葉が紹介されたのは20世紀の初めだとされ、示威行為と訳された(現在も「集団示威運動」、「示威運動」、「示威行進」 の語が法令に存在する)。 終戦後、メーデーが復活し、終戦翌年の1946年には食糧難・物資不足から1千万人餓死説も囁かれ「米よこせデモ」が発生し、暴徒化したデモ隊が皇居に入る血のメーデー事件も起こった。各地で中国共産党式の非合法活動を行って世論の反発を受けた当時の日本共産党は1952年の総選挙で一転議席が0になった。党員の一部が暴力を肯定したが、党は1955年その暴力を誤りだったと否定、そして議会による革命路線(民主主義革命)を明確にした。それに反発して以前の暴力による革命路線を貫いた日本の新左翼、暴力革命に向かう人々は日本共産党から離党したが、その後も非合法な暴力事件を繰り返し、日本の左翼衰退の原因となる。日本共産党は、平和を貫く党としての立場、民主主義革命(当然、非暴力)路線を明確に示すため、2003年6月に1971年の改定でも維持した綱領で「君主制の廃止」を「これの存廃は国民の総意によって解決される」に、「自衛隊解散を要求する」を「国民の合意で憲法第9条の完全実施に向かう」と改定している。 安保闘争に日本社会党やそれを支持する組織は非武装中立を主張して、日本共産党や支持組織は「非合法の軍隊」とする自衛隊と日米安保に基づく米軍を不要としてアメリカが主導する陣営に対抗する「自主的自警組織」を主張して参加、支援した。選挙直前に参加者数は最高潮に達したが、安保条約に反対して闘争支持していた日本社会党と日本共産党は1960年の総選挙で敗北した。安保闘争にも関わらず両党の合計得票は自民党の半分未満で投票率も前回の選挙よりも下がった。次第に第一野党の候補者擁立する選挙区自体が減って、候補者全員が当選しても過半数にならないなど政権獲得や有権者による選挙よりも市民運動やデモを重視する路線になる。2度目の安保闘争直前の1969年の選挙でも有権者全体の支持を獲得出来ず敗北した。1970・80年代には韓国の軍事政権を打倒して北朝鮮を支援する動きや市民活動が強くなる。ベトナムに平和を!市民連合に代表される市民運動なども起こった。しかし、安保闘争の規模と参加者を越えるものは無くなった。背景には成田闘争における過激な抗議活動や日本の新左翼による相次ぐテロ活動によって、安保闘争参加者や好意的に思っていた人々でさえも学生運動や市民運動への考えが変わったことにある。1972年のあさま山荘事件は日本を震撼させ学生運動とデモが急激に衰退させた。日本社会党も途中までは新左翼を評価する発言をしたが新左翼への世論の嫌悪が強まると離れた。特に成田闘争での日本社会党には党勢拡大のために反対を党の方針と決定して多くの議員が土地を買うなど参加して抗議活動を焚き付けたが地元の多くが補償で移転を受け入れ、新左翼手動の過激な闘争で世論を支持を失うと土地を手放し、最終的に成田空港を利用するようになった。三浦は特に安保闘争以降に選挙よりもデモや市民運動に過度に重視して非武装中立や自衛隊解体を掲げていたのは、支持層の固定と政権獲得放棄して3分の1獲得のみを目指す路線に繋がったと主張している。1970年代初頭まで活動支援や擁護して新左翼を「役に立つ」仲間や支持層と放置したことを批判し、新左翼が広く知られた以降から国内のデモや抗議活動への忌避が国内の主流になったと主張している。1972年以後に学生になった世代はしらけ世代と呼ばれ、デモや学生運動を忌避するようになる。安保世代で学生運動家の多数を占めていた大学生も多くが入社後にサラリーマンになって学生運動やデモから離脱した。安保世代は高卒が圧倒的多数を占めていたため、学生運動を行う「大学生」という存在の多くがこのようにノンポリや別の政党支持者になったことは痛手となった。ノンポリはしらけ世代以降も数多く生まれて、専従活動家など以外がデモに参加しなくなった。組合内部からの闘争路線への支持も激減して、労働運動も下火になる。1990年代以降はソ連崩壊による冷戦の終結、それに伴うイデオロギー対決の自由主義陣営の勝利、若者の政治離れ、日本の新左翼の展開した政治的主張の方法への慢性的な反感によって日本におけるデモは更に衰退傾向になった。2003年のイラク戦争に対する反戦デモでは数百、数千人規模の抗議がいくつかの都市部であったもの、東京での最も参加者が多かったデモでも主催者発表で4万人など安保闘争には及ばなかった。 戦後の日本でデモと言えば、先述の安保闘争や反戦・反核といった左翼・リベラル系市民団体による徒歩デモや、右翼による街宣車を連ねる車両デモが主流だったが、2000年代後半以降は左翼系市民団体や行動する保守と呼ばれる右翼系市民団体はインターネットなどを通じた草の根運動化がそれぞれ進み、従来のデモとは異なり特定の所属組織を持たない一般市民を巻き込んだ徒歩デモが目立つようになった。2011年の福島第一原子力発電所事故がきっかけで同年6月11日に新宿で行われた「6.11 新宿原発やめろデモ!!!!!」は主催者発表で2万人が参加し、反原発デモはその後も2012年7月16日に主催者発表で約17万・警察発表で約7万5千人が参加した「さようなら原発10万人集会」など何度も行われ、毎週金曜日の夜に官邸前で行われたデモでは数万人規模となることもあった(6月29日は10数万人が警察の規制を振り切り国会議事堂正門前から皇居外堀通りに向かう車道を埋めたと伝えられている)。他に、尖閣諸島抗議デモ、竹島奪還デモ、外国人参政権反対デモ、フジテレビ抗議デモ、日韓断交デモ、特定秘密保護法反対デモ、集団的自衛権反対デモなども各地で行われ、2013年には排外・反韓デモでヘイトスピーチ(憎悪表現)を叫ぶデモと、その主張に反対するカウンターデモが行われ応酬することも起こるなど、デモは多様化にある。ビートルズ来日時に右翼が「青少年を不良化するビートルズを日本から叩き出せ!」というデモを行い警官達と衝突した。その記録映像は「コンプリート・ビートルズ」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」などに使われている。 日本の場合警備が厳しく、デモ隊より警備の機動隊の人数の方が多くなることもしばしばあり、さらに機動隊がデモ隊をぐるりと包囲する形で監視していることもしばしばみられる。これにより、日本でのデモ活動では事前計画を超えることが難しく、デモが自然発生的に大規模化する現象が起りにくい。 昨今の日本のデモは諸外国に比べると穏やかものとなっている(そもそも参加人数自体が欧米やアラブなど諸国に比べ 非常に少ないので混乱もそれに応じて少ない)。しかし、日本におけるデモにおいてもかつての安保闘争の国会デモなど、負傷者を出す暴力性が見られることもある。 日本で「デモ活動」(公安条例には「集団示威運動」とあり、「デモ行進」に限定されていないため、「デモ活動」と表現)を行うにあたり、道路上でデモ活動を行う場合は道路交通法77条に基づき所轄警察署長の許可を受ける必要があるほか、デモ活動を行う都県または市が公安条例(正しくは「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」・「多衆運動に関する条例」)を定めている場合はそれに従う必要がある。国会議事堂、外国大使館・領事館、政党事務所などの周辺部では国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律が適用される地域として指定されている場所があり、その場所では拡声器を用いたデモ活動が制限されている。また破壊活動防止法では破壊的団体に対して6ヶ月間以内の期限と地域を定めてデモ活動を禁止させることができる規定が存在する。
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