日本でのテレビ映画
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日本でのテレビ草創期は、古い劇場用映画の放映以外は、生中継だけであったので劇場中継であったり、スポーツで野球・相撲中継をしていた。スタジオドラマも早い時期から生放送を行い、単発ドラマを別として、連続ドラマとして最初のものは1955年4月のKRT(ラジオ東京テレビ)の開局と同時に始まった『日真名氏飛び出す』であり、同じKRTが翌1956年にアメリカから最初のテレビ映画として『カウボーイGメン』が放映された。そして同年11月1日からKRTで『スーパーマン』(実写ドラマ版)、日本テレビが同年11月12日から『名犬リンチンチン』を、NHKが同年10月10日から『ハイウェイ・パトロール』を放送開始して、西部劇や刑事物が多かった。テレビ局が自らテレビドラマを製作するよりも、3分の1から4分の1の予算で済む安上がりで出来のいいアメリカのテレビ映画が重宝されたのである。 これには何よりも開局当時のテレビ局に製作能力のなかったこと、テレビドラマを作れるプロダクションがなかったという事情があった。そしてもう一つの理由はアメリカと同じく大手映画会社がテレビに脅威を感じて五社協定を結び、自社に所属するスターをテレビに出演させない、各社の劇映画をテレビに売らないことを決めたことであった。 そして1958年に、民間放送テレビ局の免許が下りて開局の予定が相次ぐ中で、自主製作でテレビ映画を作ろうという機運はあった。日本初のテレビ映画はKRT(現・TBS)の子会社の東京テレビ映画株式会社が製作した10分の帯番組『ぽんぽこ物語』で、1957年11月11日から放送開始され、その次に1958年2月24日から放送されたのが15分の帯番組『月光仮面』である。『月光仮面』は広告代理店の宣弘社が自社製作した低予算番組であったが大ヒットし、これが後に続く子供向けヒーロー番組の嚆矢となった。 しかし当時はアメリカから輸入されたテレビ映画が主流で、この動きは1962年頃まで続き、それまでは、放送初期のアメリカと同じように子ども向けの製作が日本では主流となった。そうした状況で1959年に東宝・大映・松竹が資本参加したフジテレビと東映グループとして設立した日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の2局が新たに開局。 東映は1958年に東映テレビ・プロダクションを発足させて、NETでの放映目的で『風小僧』『七色仮面』などを製作して、さらに放送終了後に再編集して、映画館で上映した。これは10年後にアメリカで誕生したTVムービーを日本が先駆けていたことになる。その後1961年10月に『特別機動捜査隊』で日本初の1時間番組のテレビ映画を作り、東映グループ時代はNETの独占供給だったが、1966年に朝日新聞社が東映が有するNET株の大半を習得したのと同時に東映グループから離脱したのと同時に東映グループが制作するテレビ映画は、1975年3月30日まで系列局だった毎日放送や、入れ替わりに入った朝日放送テレビといった系列局も含めた民放他局への供給を解禁された。その後も『仮面ライダーシリーズ』『スーパー戦隊シリーズ』などの子供向け特撮ヒーロー作品、『銭形平次』『暴れん坊将軍』などの時代劇、『Gメン'75』『特捜最前線』などの刑事ドラマなどを製作していった。 大映はテレビ制作室を1958年10月に設立して「大映テレビ室」と表示され、フジテレビやTBS向けを中心に制作された。最初は『少年ジェット』『海底人8823』などの子ども向け番組を作り、やがて戦争ドラマ『人間の条件』やサスペンス物の『ザ・ガードマン』を製作している。1971年に法人から「大映テレビ」として独立後、1990年代にフィルム撮影から撤退した。また大映本体も1974年に徳間書店傘下とした二代目法人を設立した後、大映テレビとは別に日本テレビ向けを中心としたテレビドラマ制作を開始した。 1958年をピークに日本映画が急速に斜陽化して製作本数が激減すると、劇場用映画を撮影できなくなった映画監督がやがてテレビに進出して、さらには市川崑、吉村公三郎、山本薩夫といった有名な映画監督がテレビ映画を手がけることも増えていった。しかし今度はテレビ局内部から批判が出て、それからは進まなかった。 1962年頃からアメリカのテレビ映画の需要が増大して、テレビ映画の不足と高騰と招いてしまう。こうした事情から、日本のテレビ局はフィルム撮影の自社製作のテレビドラマを量産させ、プロダクションへの 下請け発注による日本国産のテレビ映画が隆盛していくことになる。この頃になると、NHKは土曜日夜8時から「テレビ指定席」という番組で毎回違う内容のテレビ映画を放映して、TBSも「日曜劇場」で単発のドラマをフィルム撮影で行っていた。 他の映画会社もテレビ時代に対応すべく、東宝は1959年2月にテレビ部を、3月には松竹がテレビ製作専門委員会を設けた。新東宝は1960年に倒産し、制作部門を母体として、1961年にテレビ映画制作を専門とする国際放映が設立された。一方、テレビ局側でもTBSがテレビ局が主導してテレビ映画を製作するために、映画制作課を1963年に設立した。1966年の『ウルトラQ』をはじめとした、東宝で特撮を担当していた円谷英二率いる円谷プロダクションによる特撮テレビ映画や松竹の時代劇にTBSのディレクターを出向させるなどしている。日本テレビも自社のドラマ制作部とは別に、テレビ映画をプロデュースする映画制作部という部署が作られていた。このほか、石原プロモーションでは自社のテレビドラマ『西部警察』を製作費やスケールから「テレビ映画」と称しており、当時発売されていたサウンドトラックには同様の記述が見られた。 日本のテレビ映画では主に16mmフィルムが用いられた。これは、テレビよりさらに画質の高さが求められる35mmフィルムを用いた映画館などの劇場公開を想定して製作されたものではないのと、35mmフィルムに比べて格段に廉価で製作できるからである。これらテレビ映画は初期は30分番組も多かったが、やがて1時間番組が圧倒的となり、そして1977年7月からアメリカにおけるテレフィーチャーの隆盛を意識した『土曜ワイド劇場』がスタートして最初は1時間半番組でまもなく2時間番組となり、ここから2時間ドラマの時代が登場する。 しかし、日本はアメリカのようにテレビ局と映画会社が棲み分けして、放映と劇場公開をリンクするTVムービーのようなシステムはできなかった。毎週放映のシリーズであれ、ミニシリーズであれ、単発の2時間ドラマであれ、テレビ局と映画会社の共同製作でテレビ放映で完結することで、あくまでテレビ映画であった。 そしてやがてフィルムがビデオに変わり、テレビ映画がテレビドラマに変わっていった。 1990年代に入り、VTRの機能が充実して、ハイビジョン撮影が可能になると、現像や焼付けの処理が必要なフィルムを使ったテレビ映画はほとんど作られなくなり、映画会社のテレビ部門も撮影にビデオカメラを使うようになり、さらに映画会社がレンタルビデオ店向けのオリジナルビデオを製作するようになった。そして現在、テレビ映画は死語になりつつある。
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