日本でのテレビ映画とは? わかりやすく解説

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日本でのテレビ映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 13:44 UTC 版)

テレビ映画」の記事における「日本でのテレビ映画」の解説

日本でのテレビ草創期は、古い劇場用映画放映以外は、生中継だけであったので劇場中継であったり、スポーツ野球相撲中継をしていた。スタジオドラマも早い時期から生放送行い単発ドラマを別として、連続ドラマとして最初のものは1955年4月KRT(ラジオ東京テレビ)の開局同時に始まった日真名氏飛び出す』であり、同じKRTが翌1956年アメリカから最初テレビ映画として『カウボーイGメン』が放映された。そして同年11月1日からKRT『スーパーマン』実写ドラマ版)、日本テレビ同年11月12日から『名犬リンチンチン』を、NHK同年10月10日から『ハイウェイ・パトロール』を放送開始して、西部劇刑事物が多かったテレビ局が自らテレビドラマ製作するよりも、3分の1から4分の1予算で済む安上がり出来のいいアメリカのテレビ映画重宝されのである。 これには何よりも開局当時テレビ局に製作能力のなかったこと、テレビドラマ作れプロダクションがなかったという事情があった。そしてもう一つ理由アメリカ同じく大手映画会社テレビ脅威感じて五社協定を結び、自社所属するスターテレビ出演させない各社劇映画テレビ売らないことを決めたことであった。 そして1958年に、民間放送テレビ局免許下りて開局予定相次ぐ中で、自主製作テレビ映画作ろうという機運はあった。日本初テレビ映画KRT(現・TBSの子会社東京テレビ映画株式会社製作した10分の帯番組ぽんぽこ物語』で、1957年11月11日から放送開始され、その次に1958年2月24日から放送されたのが15分帯番組『月光仮面』である。『月光仮面』広告代理店宣弘社自社製作した低予算番組であった大ヒットし、これが後に続く子供向けヒーロー番組嚆矢となった。 しかし当時アメリカから輸入されテレビ映画主流で、この動き1962年頃まで続きそれまでは、放送初期のアメリカ同じように子ども向けの製作が日本では主流となったそうした状況1959年東宝大映松竹資本参加したフジテレビ東映グループとして設立した日本教育テレビNET、現・テレビ朝日)の2局が新たに開局東映1958年東映テレビ・プロダクション発足させて、NETでの放映目的で『風小僧』『七色仮面』などを製作して、さらに放送終了後に再編集して、映画館上映した。これは10年後にアメリカで誕生したTVムービー日本先駆けていたことになる。その後1961年10月に『特別機動捜査隊』で日本初1時間番組テレビ映画作り東映グループ時代NET独占供給だったが、1966年朝日新聞社東映有するNET大半習得したのと同時に東映グループから離脱したのと同時に東映グループ制作するテレビ映画は、1975年3月30日まで系列局だった毎日放送や、入れ替わり入った朝日放送テレビといった系列局含めた民放他局への供給解禁された。その後も『仮面ライダーシリーズ』『スーパー戦隊シリーズ』などの子供向け特撮ヒーロー作品、『銭形平次』『暴れん坊将軍』などの時代劇『Gメン'75』『特捜最前線』などの刑事ドラマなどを製作していった。 大映テレビ制作室を1958年10月設立して大映テレビ室」と表示されフジテレビTBS向けを中心に制作された。最初は『少年ジェット』『海底人8823』などの子ども向け番組作り、やがて戦争ドラマ『人間の条件』サスペンス物の『ザ・ガードマン』を製作している。1971年法人から「大映テレビ」として独立後、1990年代フィルム撮影から撤退した。また大映本体1974年徳間書店傘下とした二代目法人設立した後、大映テレビとは別に日本テレビ向けを中心としたテレビドラマ制作開始した1958年ピーク日本映画急速に斜陽化して製作本数激減すると、劇場用映画撮影できなくなった映画監督がやがてテレビ進出してさらには市川崑吉村公三郎山本薩夫といった有名な映画監督テレビ映画手がけることも増えていった。しかし今度テレビ局内部から批判出て、それからは進まなかった。 1962年頃からアメリカのテレビ映画需要増大してテレビ映画の不足と高騰招いてしまう。こうした事情から、日本のテレビ局フィルム撮影自社製作テレビドラマ量産させ、プロダクションへの 下請け発注による日本国産のテレビ映画隆盛していくことになる。この頃になると、NHK土曜日夜8時から「テレビ指定席」という番組毎回違う内容テレビ映画放映してTBSも「日曜劇場」で単発ドラマフィルム撮影行っていた。 他の映画会社テレビ時代に対応すべく、東宝1959年2月テレビ部を、3月には松竹テレビ製作専門委員会設けた新東宝1960年倒産し制作部門母体として、1961年テレビ映画制作専門とする国際放映設立された。一方テレビ局側でもTBSテレビ局主導してテレビ映画製作するために、映画制作課を1963年設立した1966年『ウルトラQ』をはじめとした、東宝特撮担当していた円谷英二率い円谷プロダクションによる特撮テレビ映画松竹時代劇TBSディレクター出向させるなどしている。日本テレビ自社ドラマ制作部とは別にテレビ映画プロデュースする映画制作部という部署作られていた。このほか、石原プロモーションでは自社テレビドラマ『西部警察』を製作費やスケールから「テレビ映画」と称しており、当時発売されていたサウンドトラックには同様の記述見られた。 日本テレビ映画では主に16mmフィルム用いられた。これは、テレビよりさらに画質の高さが求められる35mmフィルム用いた映画館などの劇場公開想定して製作されたものではないのと、35mmフィルム比べて格段に廉価で製作できるからである。これらテレビ映画初期30分番組も多かったが、やがて1時間番組圧倒的となり、そして1977年7月からアメリカにおけるテレフィーチャー隆盛意識した土曜ワイド劇場』がスタートして最初1時間半番組でまもなく2時間番組となり、ここから2時間ドラマ時代登場する。 しかし、日本アメリカのようにテレビ局映画会社棲み分けして、放映劇場公開リンクするTVムービーのようなシステムはできなかった。毎週放映シリーズであれ、ミニシリーズであれ、単発2時間ドラマであれ、テレビ局映画会社共同製作テレビ放映完結することで、あくまでテレビ映画であった。 そしてやがてフィルムビデオ変わりテレビ映画テレビドラマ変わっていった。 1990年代入りVTR機能充実してハイビジョン撮影可能になると、現像焼付けの処理が必要なフィルム使ったテレビ映画はほとんど作られなくなり映画会社テレビ部門撮影ビデオカメラを使うようになり、さらに映画会社レンタルビデオ店向けのオリジナルビデオ製作するようになったそして現在テレビ映画死語になりつつある。

※この「日本でのテレビ映画」の解説は、「テレビ映画」の解説の一部です。
「日本でのテレビ映画」を含む「テレビ映画」の記事については、「テレビ映画」の概要を参照ください。

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