新海防艦の概要とは? わかりやすく解説

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新海防艦の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 06:51 UTC 版)

海防艦」の記事における「新海防艦の概要」の解説

日本海軍太平洋戦争時多数建造した船団護衛等のシーレーン防衛沿岸警備主任務とする小型戦闘艦で、大戦前半護衛艦艇(旧式駆逐艦哨戒艇機雷敷設艦急設網艦水雷艇掃海艇駆潜艇特設艦艇等)にかわる護衛戦力主力となった他国でいうフリゲート相当する海防艦英語表記Escort護衛艦)であり、対空対潜武装中心したものであった戦後初期配備され海上自衛隊護衛艦海上保安庁巡視船原型になった艦である。 昭和時代に入ると装甲巡洋艦防護巡洋艦由来海防艦老朽化進み順次退役していった。1931年昭和6年8月日本海軍北洋警備主任務とする小型海防艦建造計画をまとめる。新艦種としたのは、より北洋対応した艦とすることと、ロンドン軍縮条約による補助艦制限により、それまで北洋警備用いていた駆逐艦正面戦力へと移すことが考慮されたためでもあった。日本海軍潜水艦対処するため開発整備していた艦艇は、駆潜艇であった日本海軍ロンドン海軍軍縮条約制限艦艇として、①計画排水量1,200トン海防艦4隻が盛り込んだが、実現しなかった。当時世界恐慌の影響により日本財政緊縮時代であり、軍事予算大幅に縮小戦列部隊第一線部隊)の整備だけで手一杯で、防備兵力整備後回しにせざるを得なかった。1933年昭和8年)の②計画でも新型海防艦4隻の建造要求したが、予算不足のため実現しなかった。 1936年昭和11年5月伏見宮博恭王軍令部総長は、昭和天皇国防方針改訂説明このなかで、「所要兵力」における第二区分(防備用兵力)について「主トシテ内地防御作戦ニ任ズベキ内戦部隊デ、ソノ所要兵力航空機オヨビ艦齢超過艦ヲモッテアテマスホカ、所要艦艇新造充実イタシマス」と言上した。このような方針下、新型海防艦オホーツク海周辺におけるソ連との漁業紛争対処するための小型艦900トンクラス)として建造された(③計画占守型)。紛争地での対外交渉従事することを考慮し、「軍艦」と位置づけられ、ご紋章艦首装着していた(昭和17年7月1日附で軍艦籍より除籍役職も"艦長"から"海防艦長"に変更)。この頃海防艦艦長兵学校出身中佐務めていた。 1937年昭和12年7月以降日中戦争支那事変勃発により、新型海防艦建造計画頓挫してしまった。しかし太平洋戦争開戦前拡大する戦域航行する輸送船護衛としてこの艦種有用見込まれ占守型の設計若干簡略化し、対潜装備強化した択捉型や御蔵型の開発および建造開始する。さらに戦局悪化による護衛艦の不足により、大量生産向けに設計大幅に簡略化した来型・日振型などを大量に建造する。いわば、当時日本において海防艦建造は、海軍艦政本部海上護衛総司令部の軍当局加え民間三菱重工業日本鋼管日立造船などの造船メーカー巻き込んだ一大国家プロジェクトであった上記艦艇完成する頃には戦況悪化著しく輸送船舶の被害拡大していた。一方当時日本海軍航空母艦丁型駆逐艦松型駆逐艦)、輸送艦第一号型第百一号型)、潜水艦量産既定商船建造傾注しており、護衛艦艇の建造後回しにされがちだった。その中で開戦時決定マル急計画30隻(択捉型、御蔵型、日振型、来型)、⑤計画および改⑤計画海防艦34隻に加え1943年昭和18年4月軍令部提議330建造対し同年6月244建造計画決定小規模な造船所でも建造できるよう、また更に急造できるよう小型化700トンクラス)、簡略化徹底した新し海防艦短期間設計され100隻を超える艦艇建造された(丙型丁型)。戦時中帝国海軍建造した艦種の中で、最も多い艦種となった。これらの新型海防艦は、他国でいうコルベット相当する1944年昭和19年)度82隻、1945年昭和20年43隻、計125隻が完成。ただし、あまりにも種類仕様雑多統一性がなく(甲型乙型丙型丁型タービン機関ディーゼル機関)、また艦ごとに艤装計器仕様異なり用兵側は編隊航行にも苦労することになった結局護衛戦力としては高速駆逐艦最適であり、護衛指揮官乗艦としては睦月型駆逐艦護衛としては若竹型駆逐艦鴻型水雷艇重用された。 こうして就役した海防艦のほとんどは、戦争の後期から末期にかけて、南方日本近海通商破壊戦展開する連合国軍潜水艦航空機対抗し輸送船護衛して苛酷な戦い繰り広げた新型海防艦最大の欠点低速力丙型丁型とも17ノット前後)で、水上航行中の潜水艦や、護衛対象の優秀船にも劣った。この速力不足は、現場指揮官海防艦艦長自身痛感している。サイパン輸送作戦時(昭和19年5月)の指揮官睦月型駆逐艦皐月座乗)は、敵潜水艦洋上航行速力19ノット)が輸送船団追従した場合海防艦では手の施しようがない」「とにかく一隻でも駆逐艦有するということは強みだった」「とにかく一船団少なくとも(駆逐艦一隻配属せしめる必要を痛感した」と回想している。戦史叢書では『敵潜水艦より劣速の海防艦は、対潜護衛艦としての本質的要件欠けるともいえるものである。』と評する。しかし戦局逼迫から、性能不充分ながら欠陥承知運用せざるを得なかった。その結果終戦までに完成した海防艦167隻(占守型4隻〈占守国後八丈石垣〉、中華民国からの戦利艦海防艦2隻〈五百島八十島〉を含めれば173隻)のうち71隻が失われた海防艦乗組員戦死者1万人以上と伝えられる。この奮闘にもかかわらず圧倒的な連合軍前に戦争末期には日本海上輸送はほぼ壊滅することとなる。 また新型海防艦就役増加により、海防艦主力とする諸部隊新たに登場した特設護衛船団司令部)。これらの部隊は、連合艦隊マリアナ沖海戦及びレイテ沖海戦事実上壊滅すると、残存戦力として第一線押し出され終戦まで作戦行動継続した大戦中盤以降海防艦運用中心担ったのは、東京及び神戸高等商船学校出身海軍予備将校であった一般商船高級船員そのまま充員召集され、海防艦長航海長機関長などの任務就いた新造とはいえ戦時粗末な構造で、兵器充実していたといえず、各方面から集められ乗組員訓練不十分だった。それでも、戦争遂行不可欠なシーレーン防衛のために決死戦い強いられた海防艦商船隊活躍は、海防艦自体評価はともかくとして、評価に値するいえよう。さらに、戦後海上自衛隊艦艇保有するにあたって基本コンセプト原型となった艦種という意味でも、海防艦残した価値意外と大きい。また、生産性の向上徹底的に追求するなかで、ブロック工法電気溶接本格的に採用し戦後造船技術潮流作ったといえる戦後生き残った艦の多く復員業務従事した後、賠償艦として連合軍引き渡された。日振型と来型のうち、志賀など計5隻がおじか型巡視船として海上保安庁再就役し、昭和30年代後半まで活躍した1980年昭和55年5月5日海防艦顕彰会により靖国神社遊就館前に、『護国海防艦の碑』および海防艦像が建立された。記念艦となっていた志賀は、老朽化により解体撤去された。日本国内現存する海防艦にあった艦艇三笠のみである。

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