新深坂トンネルの建設
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「深坂トンネル」の記事における「新深坂トンネルの建設」の解説
北陸本線は、国鉄の第1次5か年計画および第2次5か年計画によって順次複線化が進められ、1963年(昭和38年)時点までに全体の約40パーセントが複線化されていた。しかし深坂トンネルとともに開業した木ノ本 - 新疋田の路線はいまだに単線で、輸送上の隘路となっていた。この区間の複線化に際しては、深坂トンネル経由の新線を上り線に、急勾配を介する柳ヶ瀬線経由を下り線にして複線として運用することも検討されたが、結局柳ヶ瀬線は廃止とし、深坂トンネル経由の路線に線増を行うことになった。 新深坂トンネルは、深坂トンネルより下り列車進行方向に対して左側に30メートル離れた位置に掘削することになった。深坂トンネルは沓掛口から疋田口へ向けてほぼ下りの片勾配になっており、これと同じ縦断面で新深坂トンネルを施工すると、沓掛口からは下りで突っ込むことになって施工が困難となることから、新深坂トンネルでは沓掛口から833メートル385の区間を上り2パーミル勾配とし、そこから疋田口までの4,339メートル615を下り11パーミル勾配とすることになった。トンネル断面は交流電化1号型(レール面からの高さ5.35メートル)である。 掘削方法としては、 両口から単純に掘削していく方式 深坂トンネル掘削時に疋田口から1.1キロメートルほど掘削していた先進導坑を再利用する方式 斜坑を設ける方式 先進導坑再利用と斜坑設置を組み合わせる方式 の4案が検討された。予定工期はそれぞれ36か月、33か月、31か月、27か月とされた。しかし、深坂トンネルの先進導坑は長期間放置されていたため支保工が崩壊していて、再利用には新設とほとんど変わらない費用がかかると見込まれたこと、斜坑を建設する方式は、地形上約420メートルと長い斜坑が必要になるにもかかわらず斜坑から掘削できる本坑が1,500メートル程度にしかならず、斜坑の建設費に見合わないとされて、1案の両口から単純に掘削する方式が採用されることになった。 1963年(昭和38年)2月に新深坂トンネルに着工した。沓掛口側の第1工区延長2,772.5メートルは西松建設、疋田口側の第2工区延長2,400.5メートルは間組が、それぞれ担当した。深坂トンネルが難工事であった理由は、断層や真砂土の区間に大量の水が付随したためであったが、深坂トンネルによってある程度水が絞られていると判断したため、新深坂トンネルでは可能な限り全断面掘削を行うことになった。沓掛口では途中から下りで掘削しなければならないが、約200メートルおきに深坂トンネルに通じる排水坑を掘削し、ポンプによる排水は切羽から最寄り排水坑までに限定した。実際に掘削すると、1か所の断層突破に1か月以上を要した場所が4か所になり、薬液注入や迂回坑が必要となった。しかし、全断面掘削を採用した決断はおおむね良かったと総括された。 1966年(昭和41年)10月にトンネルが完成し、11月30日に開通した。深坂トンネルが上り線専用に、新しく開通した新深坂トンネルが下り線専用となった。 木ノ本 - 新疋田間の複線化では、新しく建設した線路が基本的に下り列車進行方向に対して左側に位置し、開業後に下り線となり、従来からの線路が上り線となった。しかし近江塩津駅と沓掛信号場の間については、従来線の左側は谷になっていてこちら側に増設すると大きな盛土工事が必要となるため、反対側に増設し、従来線が下り線、新設線が上り線となった。新疋田 - 敦賀間は前述のように1963年(昭和38年)に複線化されており、それ以外の区間も順次複線化が進み、1965年(昭和40年)8月9日に近江塩津 - 沓掛信号場が複線化されてこの時点で沓掛信号場は複線と単線の接続点となり、さらに1966年(昭和41年)11月30日に沓掛信号場 - 新疋田間が複線化されたことで、沓掛信号場は廃止となった。
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