入谷の朝顔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
入谷の朝顔の源流は文化の大火後、空き地が広がっていた下谷御徒町辺りに植木屋が進出し、「朝顔屋敷」と称して種々の変化朝顔を見物させた事とされる。『江戸遊覧花暦』には 牽牛花(あさかほ) 下谷御徒町邊 朝顏は往古より珍賞するといへとも、異花奇葉の出來たりしは、文化丙寅の災後に、下谷邊空地の多くありけるに、植木屋朝顏を作りて、種々異様の花を咲せたり、おひ〱ひろまり、文政のはじめの頃は、下谷、淺草、深川邊、所々にても専らつくり、朝顏屋敷など號(なづけ)て、見物群衆せし也。 — 岡山鳥、江戸遊覧花暦 という記述がある。これは前述した文化文政期の流行期と重なる。岡の『入谷の朝顔』に引用されている爲永春水の年中行事 朝顏屋敷には、 諸所にありしが今はなし、自然の花は向じまの田家垣根に多し、また緣日の植木うりが持いだすことおびたヾしき事なり、文政二三年の頃は、朝顏大そう流行せしが、此頃はすたりし樣なり。 — 爲永春水、年中行事 これは天保6年(1835年)の記録であるが、その頃には朝顔屋敷などと称して見物人が群集していたという流行は廃れていた。再び朝顔が流行するのは嘉永・安政期(1848 - 1860年)である。朝顔作りの中心は下谷から入谷に移っていった。その頃の入谷は入谷田圃と称した田園地帯であった。博物学者の伊藤圭介が編纂した資料集『植物図説雑纂 第180巻』に、入谷の植木屋であった「丸新」主人への取材記事の新聞切り抜きが収載されている(『毎日新聞』明治29年(1896年)6月24日、25日の記事)。 マア此(この)入谷(いりや)の草別(くさわけ)と云(い)ふなァ五十年(ねん)程(ほど)前(まへ)の事(こと)で私(わたくし)どもと成田屋(なりたや)留次郎(とめじろう)と云(い)ふ家(うち)二軒(けん)でしたが夫(それ)が今(いま)でハ三十四五軒(けん)は厶(ござ)ります夫(そ)れに私(わたくし)の親父(おやぢ)は當年(ことし)七十三になりますが三十年(ねん)程(ほど)前(まへ)其頃(そのころ)のお大名(だいめう)樣(さま)の薩摩(さつま)樣(さま)鍋島(なべしま)樣(さま)其外(そのほか)お旗本(はたもと)なんぞで種々(しゅ〲)お求(もと)めになつてドン〱お培養(したて)になつたので一時(じ)ハ随分(ずいぶん)盛(さか)りましたが其後(そのご)少(すこ)しの間(あひだ)中絶(ちうぜつ)致(いた)して――イヽエ培養(したて)ハ仕立(した)てましたが流行(はやら)なかつたので――明治(めいぢ)十七八年(ねん)頃(ごろ)から又(また)大層(たいそう)に流行(はや)り出(だ)しました — 名人巡り この記事の50年前は弘化3年(1846年)となるが、成田屋留次郎の見聞記にも成田屋が「弘化四年に入谷に別戸を開き以て牽牛花を培ふ」と言う記述があり時期が一致する。この頃から成田屋や丸新は入谷で朝顔栽培を行っていた。『風俗画報』第45号には以下のような記述がある。 丸新ハ百草園と稱し此地槖駝師(うゑきや)中の巨臂(おやかた)なり抑(そも)この入谷ハ土性(つちしやう)總ての草花に適(てき)し昔より草花の名地なりしが文政の頃となん此家の老翁十六七歳の時よりして千紫万紅の草花中に酷(はなは)た蕣花(あさかほ)を愛しけれバ同好の友成田屋の某と興に共に〔ママ〕錬磨(れんま)してこれか培養(バいよう)に力を竭(つく)し數年の經驗(けいけん)を積(つ)み大に發明する所あり漸やく世上の愛顧(ひいき)を博(はく)せしよりやこれか顰(ひとみ)に傚(なら)ふ東隣西家相競(きそ)ふて培養したりけれバ遂に朝顔の一大名所とハなりしなり舊幕時代にハ大名旗本の家々にて盛(さか)んに之を培養し其中にも嶋津家などにてハ三万鉢(はち)も仕立てしとなん之に次く鍋島家なとハ多くの異花珍葩(は)を出し朝顏會を催(もやう)して互に誇負(じまん)されしといひ當時丸新の老人か手に造立(つくりた)てたる名種奇品ハ一盆(はち)十五六両のものありけるとこれ今の百圓以上に當(あた)るなるべし以て花客其人、逸品其花共に高貴なりし一斑(いつぱん)を知るにたらんそれより明治革新前後の六七年間ハ兵馬の餘氣(ふん)に壓(あつ)せられ痛く凋衰(てうすゐ)せる姿に陥(おち)いりしが復又十七八年前以還(このかた)受賞の機運興り隨て槖駝師(うゑきや)の經驗發明共に大に進歩をなし斯道の遠く昔日の駕(が)するの勢とハなれりけり然と雖今の華族ハ昔の大名の如くならす愛顧花客ハ往時の貴人豪族にあらされハ如何せん受賞年一年に倍殖(バいしょく)にも抅らず今ハ絶品妙種なる物も僅に一盆一圓の上に出でず價値(あたひ)ハそれしかるも丸新一園にてさへ一季に一万餘鉢を販鬻(うりひさぐ)と云又盛んなりと謂ふべし — 馬淵漁史、入谷の朝顏 附 和歌の浦 入谷の土はすべての草花の栽培に適しており、丸新主人は成田屋留次郎と共に朝顔栽培に力を尽くし、それに倣って他の植木屋も栽培を行うようになって入谷は朝顔の一大名所となったとしている。当時の顧客は大名旗本が多く名種奇品は一鉢15、6両で売れるものもあった。その頃の入谷の朝顔を描いた錦絵に喜斎立祥が描いた『三十六花撰 東都入谷朝顔』がある。 その後明治維新の混乱により朝顔栽培を含め園芸全般が衰退した。その頃の入谷の朝顔について藻紋字が以下のように記している。 三百年(ねん)の泰平(たいへい)は興亡(こうばう)隆替(りうたい)の歴史(れきし)に砲煙(はうえん)彈雨(だんう)と修羅(しゆら)の巷(ちまた)を現(げん)じ、幾程(いくほど)もなく王制(わうせい)維新(ゐしん)となりし明治(めいぢ)二年(ねん)夏(なつ)の初(はじ)めより、明(あ)けて三年(ねん)の春(はる)の末(すゑ)には、此地(このち)に數(かず)ある寺院(じゐん)の内(うち)、何(なに)がしの住職(ぢうしよく)、くれがしの住持(ぢうじ)が、數寄(すき)に任(まか)して一たび廢(すた)れかヽりし此(こ)の花(はな)の培養(ばいやう)を試(こヽろ)み、初(はじ)めは暁(あかつき)かけてあからひく雲(くも)のまだ切(き)れぬ頃(ころ)より、咲(さ)き誇(ほこ)る色(いろ)のさま〲を愛(め)でたりしを甲(かふ)傳(つた)へ乙(おつ)知(し)りて、後(のち)には懇望(こんもう)の客(きやく)門戸(もんこ)に滿(み)ち、風流(ふうりう)韻事(いんじ)には途(みち)の遠近(ゑんきん)を問(と)わで、三々伍々(ごヾ)群(むらが)り來(きた)り、日頃(ひごろ)の嗜(たしな)みを稱賛(しようさん)するもあれば或(あるゐ)は用意(ようい)の行届(ゆきとヾ)けるに感嘆(かんたん)しつ、時(とき)ならぬ淸興(せいきょう)を入谷(いりや)の朝嵐(てうらん)に浴(あ)びて、思(おも)ひがけぬ娯樂(ごらく)を瑠璃(るり)紺碧(こんぺき)の月旦(げつたん)に上(のぼ)せしは同(おな)じく七、八、九年頃(ねんごろ)が最(もつと)も盛(さか)んに見受(みう)けられたりとなん。如(かく)有(あ)りければ土地(とち)の植木師(うゑきし)の内(うち)、兼(かね)てしも之(こ)れが栽培(さいばい)に力(ちから)を盡(つく)せしも尠(すく)なからぬ事(こと)とて、さらには一層(そう)進(すゝ)みて朝顏(あさがほ)を入谷(いりや)の名物(めいぶつ)と數(かぞ)へ立(た)て、花(はな)のさま〲葉(は)のさま〲 珍(ちん)なる奇(き)なる異(こと)なりたる夫等(それら)を都(みやこ)の人々(ひと〲)に眺(なが)めさせんは如何(いか)にとの議(ぎ)纏(まと)まり、初(はじ)めて縱覽(じうらん)さする事(こと)とせしは同(おなじ)く十年(ねん)の夏(なつ)なりしが、人(ひと)も知る此(こ)の花(はな)の麗(うる)はしき色(いろ)を愛(め)づるには、單衣(ひとへ)の袂(たもと)に風(かぜ)を孕(はら)みて、涼氣(れうき)颯々(さつ〱)肌膚(はだへ)を洗(あら)ひ、明(あ)けゆく空(そら)の東雲(しのヽめ)に、朝霧(あさぎり)晴(は)れ渡(わた)る頃(ころ)なれば、從(したが)つて一部(ぶ)の外(ほか)は客(きやく)の足取(あしどり)如何(いか)にと氣遣(きづか)はれしに、思(おも)ひきや常(つね)には夢(ゆめ)を貪(むさぼ)る若(わか)き人々(ひと〲)、老(お)ひたるは更(さら)なり男(をとこ)、女(をんな)の何(いづ)れを問(と)はで來觀(らいくわん)の人士(じんし)引(ひき)も切(き)らず、其(そ)の明(あ)けの年(とし)も翌年(よくとし)も、數(かず)は彌(いや)が上(うへ)に重(かさ)なりて十五、六、七年(ねん)の頃(ころ)には、朝顏(あさがほ)の名聲(めいせい)入谷(いりや)を壓(あつ)して優(いう)に花(はな)ごよみの一角(かく)を占(し)め — 藻紋字、入谷の名物史凋む 明治2年(1869年)頃から、某寺院の住職が一度廃れかかってしまった朝顔栽培を試み、見物者が群がった、それが盛んだったのは明治7 - 9年(1874 - 1876年)ごろであった。入谷の植木屋たちは朝顔を入谷の名物として都の人々に眺めさせようと議論がまとまり、初めて縦覧させたのは明治10年(1877年)の事であり、明治15 - 17年(1882 - 1884年)頃には朝顔の名物として定着したとしている。他にも明治期の入谷の朝顔について、#文献に現れる団十郎朝顔でも引用した入谷の重鎮であった横山茶來の息子、横山五郎が語った思い出話を岩本熊吉が書き留めたものがある。 其(そ)の頃(ころ)の入谷(いりや)は、坂本村(さかもとむら)字(あざ)入谷(いりや)の約(やく)百戸(こ)位(ぐらゐ)であつて、此處(ここ)に二十戸(こ)ぐらゐ草花(くさばな)を作(つく)つて、半分(はんぶん)は農家(のうか)、半分(はんぶん)は植木屋(うゑきや)をやつてゐたもので、其(そ)の頃(ころ)の朝顏(あさがほ)は、六寸(すん)五分(ぶ)位(ぐらゐ)の小鉢(こばち)にして、只今(ただいま)の如(ごと)く芽(め)を止(と)めて木造(きづく)りにせず、一尺(しやく)位(ぐらゐ)の鳥居(とりゐ)にして、これにからませて、毎朝(まいあさ)市中(しちう)に賣りに出たもので、陳列(ちんれつ)の分(ぶん)は、主(おも)に桐性(きりしやう)のから葉(は)のものを染附(そめつけ)の瀨戸鉢(せとばち)に植(う)ゑたのである。何故(なにゆゑ)に牡丹(ぼたん)を作らずして、から葉(は)の桐性(きりしやう)を作(つく)つたといふに、之(これ)は苗(なへ)のうちに能(よ)く分(わか)り、樂(たの)しみがあつたからで、大輪(だいりん)は、四種(しゆ)しかなく、何(いづ)れも常葉(つねは)で、紅(べに)覆輪(ふくりん)、紺(こん)覆輪(ふくりん)、淺黄(あさぎ)の刷毛目(はけめ)と白(しろ)に紫(むらさき)の堅縞(たてじま)の四種(しゆ)で、三寸(ずん)五分(ぶ)位(ぐらゐ)のものである。之(これ)はさつま性(せい)といつてゐたが、薩摩(さつま)から來(き)たものではなく、島津家(しまづけ)で作つたものが、花(はな)が大(おほ)きく咲(さ)くからさつまといつたものだ。これとても澤山(たくさん)は作(つく)らず、一軒(けん)で百鉢(はち)位(くらゐ)のものであつた。之(これ)を陳列(ちんれつ)にしてゐたが、段々(だん〲)見物(けんぶつ)も少(すく)なく、丸新(まるしん)、成田屋(なりたや)及(およ)び私(わたし)(横山氏(よこやまし))の三戸(こ)だけになつた。其(そ)の後(ご)、明治(めいぢ)十七年(ねん)頃(ごろ)になつて、入十(いりじふ)といふのが黄色(きいろ)の朝顏(あさがほ)を作(つく)つた。これは成田屋(なりたや)が上州(じやうしう)から持(も)つて來(き)たもので、成田屋(なりたや)では、別(べつ)に氣(き)に留(と)めなかつたのを、入十(いじりふ)の主人(しゆじん)が買(か)つて來(き)たのが、其(そ)の年(とし)に新聞(しんぶん)に出(で)た。それでいくらか見物人(けんぶつにん)が增(ふ)ゑて來(き)て、陳列(ちんれつ)する家(いへ)も增加(ぞうか)し、十三四戸(こ)陳列(ちんれつ)するやうになつた。これは明治(めいぢ)二十七、八年(ねん)頃(ごろ)であつた。それより追々(おひ〱)盛大(せいだい)となり、一番(ばん)盛(さか)りといふのは、三十年(ねん)から日露戰爭(にちろせんさう)の頃(ころ)であつて、一時(じ)は、朝(あさ)車止(くるまど)めまでするやうになつた。朝顏人形(あさがほにんぎやう)の如(ごと)き殺風景(さつぷうけい)のものも此(こ)の頃(ころ)出來(でき)たのである。之(これ)は普通(ふつう)の朝顏(あさがほ)で、變(かは)り物(もの)は、維新後(ゐしんご)作(つく)らなくなり、絶(た)えてしまつた。其(そ)の頃(ころ)成田屋(なりたや)だけは變(かは)り物(もの)を持(も)つてゐた。私(わたし)も近所(きんじよ)に居(を)つたから、どうして種(たね)を取(と)るかを見(み)てゐたが、やはり番號(ばんがう)を帳面(ちやうめん)に記(しる)して、何番(なんばん)から、何番(なんばん)が出(で)るといふやり方(かた)であつたが、段々(だん〲)牡丹(ぼたん)が出(で)ないやうになつたから、私共(わたしども)は、帳面(ちやうめん)等(など)を作らず、牡丹(ぼたん)の澤山(たくさん)出(で)たものから、親木(おやき)を取(と)らなくてはならんと考(かんが)へたが、其(そ)の後(ご)入谷(いりや)は段々(だんだん)都會地(とくわいち)となり、居所(きよしよ)を轉(てん)じ、又(また)居(ゐ)るものも花屋(はなや)を止(や)め四十五年(ねん)頃(ごろ)から益々(ます〱)減(へ)つて、大正(たいしやう)二三年(ねん)頃(ごろ)には全部(ぜんぶ)なくなつた。また其(そ)の頃の大輪物(たいりんもの)は、悉(ことごと)く鍬形葉(くわがたは)であつて、蟬葉(せみは)や、千鳥葉(ちどりは)はなく、せいぜい四寸位(すんくらゐ)であつて、最(もつと)も能(よ)く賣(う)れたのは亂菊咲(らんぎくざき)と云つて三寸(ずん)五分位(ぶぐらゐ)であつた。また一時(じ)、柿色(かきいろ)を大層(たいそう)好(この)み、之(これ)を團(だん)十郞(らう)といつてゐた。 — 岩本熊吉、実用花卉新品種の作り方 明治期の入谷の朝顔に関する確認できる最古の記述は『讀賣新聞』明治11年(1878年)8月2日の広告である。 昨今朝顏花盛り相成候に付本月十一日迄飾付入御覽候間不相替御來車希候 入谷 植忠 植龜 植總 丸新 新田屋 明治13年(1880年)の広告には「植忠」「成田屋」「入又」「丸新」「いり十」「新田屋」「植長」の名が見える。岩本の記述にあるようにその後一時見物人が減り明治17年(1884年)の広告では「丸新」「横山」「成田屋」の三戸だけになっている。再び見物人が増えるきっかけになった黄色い朝顔の記事が明治17年(1884年)7月22日の『讀賣新聞』に掲載されている。明治期における入谷の朝顔の全盛期は『下谷繁昌記』では明治24年(1891年) - 明治25年(1892年)としている。岩本は明治30年(1897年)から日清戦争(明治37年、1904年 - 明治38年、1905年)頃であるとする。明治36年(1903年)には植木屋11軒で大中の鉢が2万鉢あまり、小鉢は3万鉢を販売した。いずれにせよ全盛期は往来止めをするような混雑ぶりであった。末期には旗や幟を立てお祭りのようであり、団子坂の菊人形をまねて朝顔人形を作るなど興業化していった。入谷の朝顔は、一般に朝顔の栽培が広まった事、ダリアなど西洋の草花が広まった事で、短期間の朝顔ぐらいでは都市化によって騰貴した地代、多数の奉公人や配達人の費用もあり採算が取れなくなっていった。植木屋は日暮里、池之端等に移っていき、大正2年(1913年)「植松」が廃業した事で入谷の朝顔は途絶えた。 民俗学者の長沢利明は「明治~大正期の入谷が、朝顔見物でにぎわったのは確かなことであったが、今見るような『市』の形態をなして朝顔が売られるようになったのは、実質的には第二次大戦後のことである」と述べている。明治時代の入谷の朝顔は植木屋ごとに個別に展示されていた。開催期間は2019年時点の入谷朝顔市のように3日間という短い物では無く、7月の盂蘭盆の頃から8月の下旬までの約50日間という長期間開園していた。客は未明からやってきて各植木屋の庭を廻って鑑賞した。欲しい品があれば自ら持ち帰るか、もしくは植木屋に配達させる事も出来た。最初は観覧無料だったが、明治31年(1898年)より、混雑防止を目的として規模の大きい植木屋は木戸銭を徴収するようになった。 朝顔人形は明治23年(1890年)の新聞記事から確認できる。これは無料ではなく入場料を取っていた。団子坂の名物であった菊人形をまね、初代市川左團次、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎など歌舞伎役者の人形を展示していた。團十郎であれば『鏡山』の岩藤、『勧進帳』の弁慶、『鞘当』の伴左衛門、などを展示していた。
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