成田屋留次郎
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明治22年(1889年)に書かれた杉田逢川野夫による『成田屋のこと』と題する見聞記がほぼ唯一の同時代の文献である。この項ではこの文献を中心に解説していく。 成田屋留次郎の本名は山崎留次郎と言い、成田屋は屋号である。入谷で弘化期から明治時代まで植木屋を営んでいた。留次郎は文化8年(1811年)浅草の造園家の次男として生まれた。弘化4年(1847年)、37歳で入谷に別に一家を構え、朝顔栽培を始めた。留次郎は丸新の主人とともに入谷での朝顔栽培の始祖であった。 留次郎の名が初めて現れるのは嘉永2年(1849年)榧寺で花友追悼のために行われた「朝花園追善朝顔華合(ちょうかえんついぜんあさがおはなあわせ)」の番付である。植木屋留次郎と三五郎が世話人となっている。嘉永4年(1851年)7月10日、亀戸天神で開かれた花合わせ、翌日に開かれた小村井の江藤梅宅で開かれた小規模な花合わせでも世話人を務めている。江藤梅宅で開かれた花合わせでは、後に活躍する横山萬花園(横山茶來)らの仲間も加わった。安政3年(1856年)7月18日には、留次郎が催主で坂本入谷の蓬深亭で花合わせがあり、鍋島杏葉館(鍋島直孝)、大坂から山内穐叢園が出品した。江戸期最後の「朝顔花合」の番付は文久3年(1863年)6月27日のもので、成田屋が催主、英信寺で開催され、植木屋30名、そのうち20名が入谷の植木屋であった。 留次郎は自らを「朝顔師」と名乗り朝顔図譜『三都一朝(さんといっちょう)』、『両地秋(りょうちしゅう)』、『都鄙秋興(とひしゅうきょう)』を刊行している。『三都一朝』は嘉永7年(1854年)7月に刊行された。上巻の品類32図、中巻34図、下巻34図、計100図が収められている。「三都」とは江戸・大坂・京都を指している。絵図を描いた田崎草雲は谷文晁らに師事した南画家である。なぜ田崎草雲が描いたかを、若い頃留次郎に会った事があるという岡不崩が以下のように記している。「成田屋は將基が好きで、草雲は好敵手であつた。留次郎が奥の小座敷に、變り物の珍品を陳列して、將基盤を前にして、見物人をながめて『お前さん達に此の朝顏はかるものか、といつた風に控えてゐたものである。草雲とは至つて心安なので、將基の敵手であると共に、朝顏は留次郎の門下であつたらしい、なか〱朝顏は悉しかつたそうである。將基で一ツ花を持たして『草雲先生どをです、此葉にこの花を咲しては、此花は面白いから此枝に咲して下さい、といつた銚子〔ママ〕もあつたらしい。出來上つた三都一朝は、卽ちそをいつた樣な點も伺はれるやうである。」『両地秋』は安政2年(1855年)の刊行、「両地」とは江戸・大坂を指す。『都鄙秋興』は安政4年(1857年)刊行、「都鄙」とは「都(みやこ)」と「鄙(いなか)」、江戸と近郊都市を指す。題名の変遷で分かるように変化朝顔の流行は大都市から周辺都市に広がっていた。幸良弼選、野村文紹画。三書とも選者は幸良弼である、幸良弼とは南町奉行の跡部能登守である。『緑の都市文化としての入谷朝顔市』によれば、『都鄙秋興』は『三都一朝』の図を再利用したり、同じ図でも培養家の名を改めていることが多いとしている。岡はこの三書を刊行した留次郎の功績について以下のように述べている。「彼の著書に就いては、今日ではいろ〱と論議すべき點も多くあるとはいへど、維新後一時中絶した斯界を再興する時代にありては、是等の著書を標準とし硏究栽培したものであつた、つまりお手本として、又珍奇の出物(でもの)の目標として、遂に今日のやうな珍品や、理想花を得るに至つたので、その點は大いに預つて功ありといつべきである。」 『成田屋のこと』には入谷で朝顔栽培を始めた頃の以下のようなエピソードが記されている。当時、朝顔栽培者が多くなっていたが大坂あたりのような奇品はなく、普通の品種ばかりであった。同好の者たちがこれを嘆き、各々から集金して大坂に行き良種を得ようと計画した。留次郎はこれを了承し、翌年有志より金を集め大坂に向かった。しかしどこに良種があるか分からず、留次郎は奔走してある培養家を見つけ、1種につき種子を2粒ずつ、70 - 80種を50両で購入し、集金した者に頒布した。しかし皆普通の品種であったので、一同は失望し留次郎は面目がないので再び大坂に行き、あまねく培養者を探した。そしてある家ですこぶる佳品が多いのを認め、その家の種をことごとく買い取ろうとしたが、60両という大金を示された。交渉の末30両で買い取る事でまとまり、良品か否かの差別なくその家の種をことごとく持ち帰り、それを集金した者に頒布した。それがこの地の名人が名を博し朝顔愛好者の増える始まりとなった。持ち帰った種子からは7、8割は各種の奇品が出た。それから毎年季節を見計らい大坂に行き、そこで自分の品種と交換をし、奇品を出すことに熱が入る事8年に至った。そして今(明治22年当時)に至り各地方より尋ね来たり、もしくは手紙で買入れをする人が絶えなくなったという。 変化朝顔の流行は明治維新の混乱によって途絶えた。明治以降の入谷では変化朝顔はほとんど作られず、普通の丸咲きの朝顔が主流となった。明治12 - 13年(1879 - 1889年)頃から入谷は再び朝顔の名所となり、その当時留次郎が専売していた自らの屋号「成田屋」を名に冠した朝顔が最も名高かった。「成田屋」は当時劇壇の明星であった九代目市川團十郎の三升の紋が柿色に染め出されている事により「団十郎」と呼ばれるようになった。この「団十郎」は変化朝顔ではなく、普通の丸咲きであった。入谷では変化朝顔の栽培はほとんどおこなわれなくなっていたが、留次郎だけは変化朝顔の栽培を継続していた。『成田屋のこと』には以下のような記述がある(口語訳して引用する)。「その後維新に際して世と共に変遷し絶えて愛玩する者も無くなる運命となったが、漸次また復古して年々愛玩する者も増したとはいえ、往年とは大いに趣味を異にし、薩摩性と称する大輪が流行している。これは皆普通の丸咲きである。同時に本年(明治22年)はいくらか変化朝顔の愛好者が現れ、鑑賞または買い取る者が集まってきた。これは近来まれに見る事であり、留次郎は私(著者)にこう告げた『今年はこれまで絶えたとされていたものも発生した。しかしこれを見る者は少ないと思っていたが、図らずも近頃にない見物人が出た。だから草木は無性のようだがそうではない。既に人の気勢を感じているのではないだろうか。』と語った。儒者風に言えば『昔、宗の邵雍がホトトギスの声を聞いて、『禽鳥飛類は氣の先を得る者なり(飛鳥の類は、地気の動きを真っ先に予知する物だ)』と嘆息した』(とでもなろうか)。唐人と日本人、鳥と花、末世と文明の世においての違いはあるが、等しくこれ天人感応の理とでもいうべきだろうか。」 留次郎は明治24年(1891年)に81歳で死去した。没後2、3年は「成田屋」の屋号で朝顔の陳列がされていたが、いつしか廃業して行方も分からなくなった。
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