成田屋留次郎とは? わかりやすく解説

成田屋留次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)

団十郎朝顔」の記事における「成田屋留次郎」の解説

明治22年1889年)に書かれ杉田逢川野夫による『成田屋のこと』と題する見聞記がほぼ唯一の同時代の文献である。この項ではこの文献中心に解説していく。 成田屋留次郎の本名山崎留次郎と言い成田屋屋号である。入谷弘化期から明治時代まで植木屋営んでいた。留次郎文化8年1811年浅草造園家次男として生まれた弘化4年1847年)、37歳入谷別に一家構え朝顔栽培始めた留次郎丸新主人とともに入谷での朝顔栽培始祖であった留次郎の名が初め現れるのは嘉永2年1849年榧寺花友追悼のために行われた「朝花園追善朝顔合(ちょうかえんついぜんあさがおはなあわせ)」の番付である。植木屋留次郎三五郎世話人となっている。嘉永4年1851年7月10日亀戸天神開かれた花合わせ翌日開かれた小村井江藤宅で開かれた小規模な花合わせでも世話人務めている。江藤宅で開かれた花合わせでは、後に活躍する横山萬花園(横山來)らの仲間加わった安政3年1856年7月18日には、留次郎催主坂本入谷深亭で花合わせがあり、鍋島杏葉館(鍋島直孝)、大坂から山内穐叢園が出品した江戸期最後の「朝顔花合」の番付文久3年1863年6月27日のもので、成田屋催主英信寺開催され植木屋30名、そのうち20名が入谷植木屋であった留次郎は自らを「朝顔師」と名乗り朝顔図譜三都一朝(さんといっちょう)』、『両地秋(りょうちしゅう)』、『都鄙秋興(とひしゅうきょう)』を刊行している。『三都一朝』は嘉永7年1854年7月刊行された。上巻品類32図、中巻34図、下巻34図、計100図が収められている。「三都」とは江戸大坂京都指している。絵図描いた田崎草雲谷文晁らに師事した南画家である。なぜ田崎草雲描いたかを、若い頃留次郎会った事があるという岡不崩が以下のように記している。「成田屋は將基が好きで、好敵手であつた。留次郎が奥の小座敷に、變り物の珍品陳列して、將基盤前にして、見物人ながめてお前さん達に此の朝顏かるものか、といつた風に控えてゐたものであるとは至つて心安なので、將基の敵手であると共に朝顏留次郎門下であつたらしい、なか〱朝顏は悉しかつたそうである。將基で一ツ花を持たして先生どをです、此この花を咲しては、此花面白いから此に咲して下さい、といつた銚子ママ〕もあつたらしい出來上つた三都一朝は、卽ちそをいつた樣な點も伺はれるやうである。」『両地秋』は安政2年1855年)の刊行、「両地」とは江戸大坂を指す。『都鄙秋興』は安政4年1857年刊行、「都鄙」とは「都(みやこ)」と「鄙(いなか)」、江戸近郊都市を指す。題名の変遷分かるように変化朝顔流行大都市から周辺都市広がっていた。幸良弼選、野村文紹画。三書とも選者は幸良弼である、幸良弼とは南町奉行跡部能登守である。『緑の都市文化としての入谷朝顔市によれば、『都鄙秋興』は『三都一朝』の図を再利用したり、同じ図でも培養家の名を改めていることが多いとしている。岡はこの三書刊行した留次郎功績について以下のように述べている。「彼の著書に就いては、今日ではいろ〱と論議すべき點も多くあるとはいへど、維新後一時中絶した斯界再興する時代にありては、是等著書標準とし硏究栽培したものであつた、つまりお手本として、又珍奇出物(でもの)の目標として、遂に今日のやうな珍品や、理想花を得るに至つたので、その點は大いに預つて功ありといつべきである。」 『成田屋のこと』には入谷朝顔栽培始めた頃の以下のようなエピソード記されている。当時朝顔栽培者が多くなっていたが大坂あたりのような奇品はなく、普通の品種ばかりであった同好の者たちがこれを嘆き各々から集金して大坂行き良種得よう計画した留次郎はこれを了承し翌年有志より金集め大坂向かった。しかしどこに良種があるか分からず留次郎奔走してある培養家を見つけ、1種につき種子を2粒ずつ、70 - 80種を50両で購入し集金した者に頒布した。しかし皆普通の品種であったので、一同失望し留次郎面目がないので再び大坂行きあまねく培養者を探した。そしてある家ですこぶる佳品が多いのを認め、その家の種をことごとく買い取ろうとしたが、60両という大金示された。交渉の末30両で買い取る事でまとまり良品か否か差別なくその家の種をことごとく持ち帰り、それを集金した者に頒布した。それがこの地の名人が名を博し朝顔愛好者増える始まりとなった持ち帰った種子からは7、8割は各種の奇品が出た。それから毎年季節見計らい大坂行き、そこで自分品種交換をし、奇品を出すことに熱が入る8年至った。そして今(明治22年当時)に至り各地方より尋ね来たり、もしくは手紙買入れをする人が絶えなくなったという。 変化朝顔流行明治維新混乱によって途絶えた明治以降入谷では変化朝顔はほとんど作られず、普通の丸咲き朝顔主流となった明治12 - 13年(1879 - 1889年)頃から入谷は再び朝顔の名所となり、その当時留次郎専売していた自らの屋号成田屋」を名に冠した朝顔が最も名高かった。「成田屋」は当時劇壇明星であった九代目市川團十郎三升の紋が柿色染め出されている事により「団十郎」と呼ばれるようになった。この「団十郎」は変化朝顔ではなく、普通の丸咲きであった入谷では変化朝顔栽培はほとんどおこなわれなくなっていたが、留次郎だけは変化朝顔栽培継続していた。『成田屋のこと』には以下のような記述がある(口語訳して引用する)。「その後維新に際して世と共変遷し絶えて愛玩する者も無くなる運命となったが、漸次また復古して年々愛玩する者も増したとはいえ往年とは大い趣味異にし、薩摩性と称する大輪流行している。これは皆普通の丸咲きである。同時に本年明治22年)はいくらか変化朝顔愛好者現れ鑑賞または買い取る者が集まってきた。これは近来まれに見る事であり、留次郎は私(著者)にこう告げた今年これまで絶えたとされていたもの発生した。しかしこれを見る者は少ないと思っていたが、図らずも近頃にない見物人出た。だから草木無性のようだがそうではない。既に人の気勢感じているのではないだろうか。』と語った儒者風に言えば『昔、宗の邵雍ホトトギス声を聞いて、『禽鳥飛類は氣の先を得る者なり(飛鳥の類は、地気動き真っ先予知する物だ)』と嘆息した』(とでもなろうか)。唐人日本人と花、末世文明世においての違いはあるが、等しくこれ天人感応の理とでもいうべきだろうか。」 留次郎明治24年1891年)に81歳で死去した没後2、3年は「成田屋」の屋号朝顔の陳列がされていたが、いつしか廃業して行方も分からなくなった

※この「成田屋留次郎」の解説は、「団十郎朝顔」の解説の一部です。
「成田屋留次郎」を含む「団十郎朝顔」の記事については、「団十郎朝顔」の概要を参照ください。

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