南画
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南画(なんが)とは、中国の南宗画に由来し、これを日本的に解釈した絵画であり、江戸時代中期以降に発展をみた絵画様式である。文人画(ぶんじんが)ともいう。絵画のみならず、漢詩や俳句といった詩(言語芸術)と、それを記した書である画賛(視覚芸術)を組み合わせた芸術であるが、絵のみで成立していることも多い。本項では、日本における文人画については特に断りのないかぎり南画として言及する。
注釈
- ^ 絵画について論じたもの。理論、画法、品等について述べたもののほか、題識、画史、伝記を含む[3]。
- ^ 『画禅室随筆』巻二「禪家有南北二宗,唐時始分畫之。南北二宗,亦唐時分也,但其人非南北耳。北宗則李思訓、李昭道父子。著色山水,流傳而為宋之趙幹、趙伯駒、趙伯驌,以至馬夏(馬遠と夏珪)輩。南宗則王摩詰(王維)始用渲淡,一變鉤斫之法,其傳為張璪、荊關(荊浩と関同)、郭忠恕、董巨(董源と巨然)、米家父子(米芾と米友仁。以至元之四大家(黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙),亦如六祖之后,有馬駒(以下略) http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%95%AB%E7%A6%AA%E5%AE%A4%E9%9A%A8%E7%AD%86/%E5%8D%B7%E4%BA%8C 」
- ^ 『画禅室随筆』はまた、南宗画が北宗画よりも芸術的に優れているとする「尚南貶北論」(しょうなんへんぼくろん)という理論を打ち出したものであった[6]。
- ^ 江戸中期の京都では私塾・寺子屋が伸張しつつあった。また、池大雅・与謝蕪村ら初期の文人画家の周囲には、当時の中国文化発信の一大拠点であった黄檗山萬福寺に出入りする者が多かった。需要の面においても、町衆、旦那衆、地方の素封家に中国文化の愛好家が増加していた[15]。
- ^ 例えば、初期の南画である柳沢淇園は、狩野派の画法を修めたうえでこれに見切りをつけ、顧愷之・陸探微・張僧繇・呉道玄らの中国の古典に学び、英元章を師とすると宣言している[16]。
- ^ 詩書画一致とも。三要素すべてが補い合っている作品、またはこれに優れた人物を「詩書画三絶」と呼んだ[21]。
- ^ きいんせいどう。南北朝時代の謝赫が説いた「画の六法」の一。文字通りの意味は「万物生成の根元力のひびきが生き生きとして真に迫ること」であり、「対象物の生命力、呼吸をつかんでそれを描け」、「描かれた絵に一個の生命体のような生き生きとした輝きが必要である」ともとれる[26]。清の鄒一桂は「気韻生動」は制作過程のことではなく、またこれを第一に挙げるのは鑑賞家の見方であるとした一方で、日本の狩野派・土佐派は筆法、または絵の持つ勢いや活力であるという認識であった。日本の文人画もおおむね後者の考えを受け継いだ[27]。
- ^ しゃい。形を写実的に描くこと、あるいは似せることよりも、対象物をいかにそれらしいと感じさせるように描くことを重視すること。南画家のみならず日本のその他の流派も写意を重んじたが、円山応挙のように写生・写形をもって本質に迫ろうとする画家も存在した[28]。
- ^ かいしえんがでん。日本の文人画家たちに最重要視された絵手本・画譜の一つ。明代、嘉禎の文人、李流芳が収集した、歴代名家の山水画法をして初集の原本となった。清初の画家、王概らがこれに増補し、康煕18年(1678年)から嘉慶23年(1818年)の間に出版される。日本においては、元禄年間にはすでに受容されており、康煕40年(1701年)に増補したものが中国で出るとほどなくして日本に伝来したようである。影響は江戸中期以降の文人画家にとどまらず、狩野派画人も含めた広範囲に及んだ[39]。
- ^ はっしゅがふ。「唐詩五首」「唐詩六言」「唐詩七言」「梅竹蘭菊」「古今画譜」「草木花詩」「木本花鳥」「名公扇譜」の八種類の画譜を集めたことからこの名がついた。天啓元年(1621年)ごろ纏められたか。日本では寛文12年(1672年)、その後宝永7年(1710年)にふたたび翻刻された[44]。
- ^ 吉沢は、彭城百川(名古屋の町人階級出身)について池大雅・与謝蕪村らと分けて論じている。彼は職業画家であったものの、様式が安定しなかったことにより、作家性についてはむしろ祇園南海や柳沢淇園に近いのではないかと論じている[45]。
- ^ 写生画の伊藤若冲や円山派の円山応挙、長沢芦雪など[51]。
- ^ 天保元年(1830年)刊、安西雲煙(書画鑑定家)著[54]。
- ^ 惲寿平らとともに、清初六大家の四王呉惲の一人。董其昌以降の中国南宗画において主流派に属した。[58]
- ^ 脱藩・隠遁して制作に臨んでいた南画家たちは、現金をもって謝礼とすることが多かった[45]。
- ^ 同書は南画初期(上掲の区分2期から3期の中間)の情勢についてくわしく伝えている[61]。
- ^ 「近衛公ノ戯墨惺々翁宗達光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ言ハンカ」[62]
出典
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- ^ a b 佐々木&佐々木 1998, pp. 190, 198.
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