蝉葉出現以前の大輪朝顔の歴史
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「団十郎朝顔」の記事における「蝉葉出現以前の大輪朝顔の歴史」の解説
入谷の朝顔のように一般大衆が楽しむ朝顔の文化とは別に、朝顔愛好家が愛好会を結成し変化朝顔の花芸や大輪朝顔の花径の大きさを競い合う文化も存在した。大阪では明治17年(1884年)に浪速牽牛社、京都では明治19年(1886年)に半日会、東京では明治26年(1893年)に穠久会(じょうきゅうかい)、名古屋では明治30年(1897年)に名古屋朝顔会の前身である月曜会、熊本では明治32年(1899年)に涼花会が結成された(他にも各地域に朝顔会が結成された)。半日会と涼花会は当初から大輪朝顔が専門であったが、他は変化朝顔が主で大輪朝顔は従だった。大正時代に逆転し大輪朝顔専門の会が多くなった。大輪朝顔の基本変異は洲浜遺伝子である。洲浜遺伝子は曜(維管束のある部分)を増加させる働きがある。大輪朝顔の起源は江戸期に遡ると考えられ、文化14年(1817年)刊行のあさかほ叢には「日傘(ヒガラカサ)」や「葵葉菊咲」など曜が増えている品種の記述がある。しかし確実に州浜といえるものはない。嘉永7年(1854年)刊の朝顔三十六花撰には「掬水洲濱葉照千種花笠フクリン数切獅子牡丹度咲」と洲浜の文字が見える。アサガオ研究者の仁田坂英二は「これは獅子(feathered)であり、獅子の弱い対立遺伝子の持つ獅子葉は洲浜葉によく似ているため本当の洲浜突然変異ではない」と述べている。洲浜の最古の確実な記録とされるのは成田屋留次郎が安政2年(1855年)に刊行した「両地秋」に記載されている鍋島直孝(号は杏葉館)の「黄洲濱葉紅カケ鳩筒ワレクルイシン一筋丁子咲芯」である。狂い咲きとして取り上げられているが、大阪朝顔会発起人で全国朝顔会理事でもあった中村長次郎はアサガオ研究者の今井喜孝にこの図を見せ「『まぎれもない洲浜』と認定された」としている。仁田坂は「この時期に存在した洲浜系統が九州の大名に渡りその後も栽培されていたと考えている」と述べている。江戸時代の大輪は常葉から選抜された物であったので大輪とは言っても4寸2、3分(12.7 - 13cm)であり、明治中期に至っても依然として4寸台が主流であった。
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