団十郎朝顔の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
明治維新後の社会的混乱のため、朝顔栽培をはじめとする園芸全般は衰退した。社会の混乱が落ち着いた明治12、3年頃から入谷が再び朝顔の名所となり、そこで団十郎朝顔が生まれ一世を風靡した。日本画家でありまた本草学の研究家であった岡不崩は以下のように記している。 抑も、明治の初年は、百事未だ混沌の中にありて、泰西文化は時々刻々に歷史的風習を破壊し去らんとし上下共に其歸著する處に惑ひ、各般の制度未だ容易に確立せず、然れども幾多の事變と、困難と、經驗とによりて、次第に秩序的に萬事に基礎を按排することを得たり。 如此くして明治十二三年の交に至りて、制度文物の施設略その體を備ふるに至り、人心融和して市民其居に安んじ園藝を弄ぶの餘暇を得るに至り、入谷は再び都下の一名所となり成田屋、丸新、栞齊、其他の花戸嬋娟を競へり。都民は年中行事の一として必ず此入谷にあ(﹅)さ(﹅)か(﹅)ほ(﹅)を見ることヽとせるが如し。然りと雖も其花たるや普通平凡なるもののみにして、成田屋と稱する柿の丸咲最も名高りき。そは入谷の留次郞が専賣なるを、其屋號の成田屋なると、其當時劇壇の明星なりし團十郞の三升の紋の柿色に染出されしとに依つて、留次郎の屋號の成田屋を名とせる花は、又、團十郞と呼ばるヽに至れり。而して當時はあながちに大輪を稱するにてもなく、只一鉢に數多く咲かせたるを嗜むの風ありき。架を大にして繁茂せしめたるを入谷作りと云ふ。如此一般は其嗜好幼稚なりしと雖も、文化文政より繼續せる成田屋留次郎は猶雨龍葉の類を奥座敷に飾り、三都一朝、都鄙秋興を繙ときて、好事者に説明するあれば、高須栞齊は又、昔しの印籠作に妙を得て、留次郎と雌雄を爭へり。成田屋没して茶來出でて、入谷の重鎭となる。 — 岡不崩、明治昭代の牽牛子 当時、成田屋留次郎が専売していた「成田屋」という柿色丸咲きの朝顔が最も名高かった。自らの屋号を冠した「成田屋」が当時劇壇の明星であった九代目市川團十郎の三升の紋が柿色に染め出されている事により、「団十郎」と呼ばれるようになった。この成田屋留次郎がどういう人物か、当時東京名物であった入谷の朝顔がどのような物であったかは#成田屋留次郎と入谷の朝顔で述べる。
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