団十郎朝顔の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
九代目市川團十郎の名声と共に一世を風靡した団十郎朝顔であるが、九代目市川團十郎の死(明治36、1903年)と宅地化(都市化)による入谷の朝顔の衰退と消滅(大正2、1913年に「植松」が廃業し途絶えた)に伴い、団十郎朝顔は廃れ、次第に人々から忘れ去られていった。 花(はな)も先年中(せんねんちう)は柿色(かきいろ)煤色(すヽいろ)の如(ごと)き變(かは)り色(いろ)を喜(よろこ)ばれしも二三年(ねん)以來(いらい)は普通(ふつう)瑠理(るり)又(また)は本紅(ほんべに)の大輪(たいりん)を好(この)む人(ひと)多(おほ)く — 入谷の牽牛花 二十年前――まだ九代目の存生中、團十郞と云ふ花が出て一時人々に翫賞されたが、九代目の歿後と共に廢されて、さらに「聯隊旗」と云ふやうな名が出た。 — 有祿生、朝顔の時代趣味 団十郎の名声が一世を風靡するにつれて、その影響はいろいろな方面に現れた。煙草のオールドが勧進帳の弁慶を広告に用ゐたなどもその一例であるが、もつと小さなもので意外に普及したのは朝顔の団十郎である。(中略)団十郎その人は絶えず回顧されてゐながらも、朝顔の方は次第に閑却されてしまつた。団十郎の人気を切り離して見れば、柿色の朝顔などは別に美しい物ではない。 — 柴田宵曲、明治風物誌
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