文献に現れる団十郎朝顔
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「団十郎朝顔」の記事における「文献に現れる団十郎朝顔」の解説
以上の岡による記述は大正元年(1912年)のものである。確認できる団十郎朝顔に関する最も古い記述は明治24年(1891年)東京朝日新聞の記事である。入谷での団十郎朝顔の様子が「朝顔大名」という題で、狂言風に大名と太郎冠者の問答として書いた記事が掲載されている。 大名「なか〱此處(こヽ)ぢや扨(さて)も出(で)たぞ夥(おびた)だしい人(ひと)ぢやヤアー咲(さい)たぞ扨(さて)もさても美事(みごと)に咲(さい)た事(こと)ぞアノ赤(あか)と白(しろ)との間(あひだ)にある一鉢(ひとはち)ハ珍(めづ)らしい花(はな)ぢや何(なん)と申すぞ 太「これで厶(ござ)りまするか是(これ)ハ團(だん)十郞(らう)と申して近年(きんねん)此花(このはな)を造(つく)つたと申すことでことで厶(ござ)ります 大名「シテ何故(なにゆゑ)に團(だん)十郞(らう)と申すのでおりやるぞ 太「これハ此色(このいろ)を俗(ぞく)に柿色(かきいろ)と申し團(だん)十郞(らう)が十八番(ばん)の家(いへ)の藝(げい)暫(しばら)くの素袍(すはう)の色(いろ)と同(おな)じ色(いろ)ぢやによつて團(だん)十郞(らう)と名(なづ)けたと見(み)えまする — 朝顔大名 この記事では市川團十郎が歌舞伎十八番「暫」に用いる素袍の色が柿色であり、その色と同じ事から名付けられたとしている。明治27年(1894年)8月に発行された『朝顔銘鑑』(東京・百草園丸新 鈴木新次郎発行)には「常葉極大輪咲之部」内に「斑入葉極濃キ柿覆輪、一名團十郞」と記されている。また、明治33年(1900年)12月10日に発行された『朝顏畫報』第7号(宇治朝顏園発行)の「花名録」には丸咲きの部として「成田屋 黄州浜葉渋茶白覆輪大輪」と記されている。 他にも明治時代の団十郎朝顔について、いつくかの文献に記述がある。#団十郎朝顔の誕生の項に引用した岡の記述にもある入谷の重鎮であった横山茶來の息子、横山五郎が語った明治時代の入谷の朝顔についての思い出話を岩本熊吉が『実用花卉新品種の作り方』の中で記している。 また其(そ)の頃の大輪物(たいりんもの)は、悉(ことごと)く鍬形葉(くわがたは)であつて、蟬葉(せみは)や、千鳥葉(ちどりは)はなく、せいぜい四寸位(すんくらゐ)であつて、最(もつと)も能(よ)く賣(う)れたのは亂菊咲(らんぎくざき)と云つて三寸(ずん)五分位(ぶぐらゐ)であつた。また一時(じ)、柿色(かきいろ)を大層(たいそう)好(この)み、之(これ)を團(だん)十郞(らう)といつてゐた。 — 岩本熊吉、実用花卉新品種の作り方 演劇評論家の伊坂梅雪が、以下のように記している。 どこの植木屋であつたか、柿色へ三升の線を取つた朝顏が出來たので(是れは自然に出來たの歟)夫れを三升の朝顏だとか、團十郞朝顏だと宣傳したので珍らし好きの江戸ツ兒は我勝ちに見物に出掛けたので、遂ひに九代目團十郞も見物に出掛けたと云ふ事が當時の新聞に出た事がある。 — 伊坂梅雪、見たり聞いたり また、アメリカのジャーナリスト、エリザ・シドモアが「The Wonderful Morning-Glories of Japan(素晴らしい日本の朝顔)」という記事を『The Century Magazine』に寄稿しており、その中で団十郎色の朝顔について触れている。 The whole family of dull grayish pink, or old rose, known as shibu (persimmon-juice) or kake〔ママ〕 (persimmon) color, are lately classed as Danjiro〔ママ〕 colors, from the shibu-colored robe worn by that great actor in a favorite role.(訳)渋色(柿渋色)または柿色として知られている、くすんだ灰色がかったピンク、またはオールドローズの品種はすべて、かの大役者が得意演目で渋色の衣装を着ていた事から、最近団十郎色と分類されるようになった。 — Eliza Ruhamah Scidmore、The Wonderful Morning-Glories of Japan 俳人の正岡子規は明治25年(1892年)に入谷の近所である下谷区上根岸八十八番地に転居、明治27年(1894年)に同八十二番地に移り、以後没するまでここに住んだ(「子規庵」と呼ばれた)。子規のもとには赤木格堂、五百木良三、石井露月、河東碧梧桐、高浜虚子、坂本四方太、寒川鼠骨、内藤鳴雪、松瀬青々らが集い、「日本派」と呼ばれた。 子規は当時の入谷の朝顔についていくつか句を残している。 蕣の入谷豆腐の根岸哉 (明治26年) 朝顏や入谷あたりの只の家 (明治27年) 入谷から出る朝顏の車哉 (明治31年) 団十郎朝顔について正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子が句に残している。 子規 朝霧や團十郞の二三輪 (明治30年) 朝顏や團十郞の名を憎む (明治31年) 咲て見れば團十郞でなかりけり (明治32年) 碧梧桐 團十郞朝顏の名にいかめしき (明治31年) 虚子 團十郞朝顏の名に殘りけり(明治41年) 明治30年(1897年)、子規の郷里松山で柳原極堂により俳句雑誌『ほとゝぎす』が創刊された。明治31年(1898年)には子規が東京に移して主宰し高浜虚子が発行人となった。明治34年(1901年)誌名を『ホトトギス』に変更した。『ホトトギス』で活動していた俳人の村上鬼城、渡邊水巴も団十郎朝顔についての記述を残している。 私は朝顏を栽培(つくり)初めて廿年にもなる、其間、シヤツ一枚で、炎熱と戰て、船頭見たいになつちまツた。 最初は、團十郞だの、浴後の美人だのツて朝顏(やつ)を栽培(つくつ)た、ラツパ咲の、釣瓶を取る性質(たち)のだ、其の時分は朝顏の趣味は、野趣に在るものとばかり思つてゐたから、從て一重咲の極(ご)く瀟洒(あつさり)したものを愛した。 — 村上鬼城、第二年目 ‥‥來てみると、すでに、折目の正しい紅梅織を着て腰に扇子を差してゐる商家の御隱居らしいのと、吉原(なか)の藝者に半玉(おしやく)を連れた中年の株屋さんらしいのとが、たくさんな鉢の一樣にずらりと咲き澄んでゐる朝顏を見てゐた。まだ夜が明けたばかりなのである。 その花の、柿色のを團十郞と云ふ。それなら藍は菊五郞と稱びたい。すると紺が左團治、白が權十郎、赤が福助、絞りが源之助か‥‥。 ぐるりを葭簀で圍つてある内(なか)にも短夜の名殘の薄霞が微かながら動いてゐて、冷や〱した大氣のながれが顏に觸れる。 — 渡邊水巴、夏の風景 ―(明治時代も娯しかつたナと思ふ)―
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