文献に現れる団十郎朝顔とは? わかりやすく解説

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文献に現れる団十郎朝顔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)

団十郎朝顔」の記事における「文献に現れる団十郎朝顔」の解説

上の岡による記述大正元年1912年)のものである確認できる団十郎朝顔に関する最も古い記述明治24年1891年東京朝日新聞記事である。入谷での団十郎朝顔様子が「朝顔大名」という題で、狂言風に大名太郎冠者問答として書いた記事掲載されている。 大名「なか〱此處(こヽ)ぢや扨(さて)も出(で)たぞ夥(おびた)だしい人(ひと)ぢやヤアー咲(さい)たぞ扨(さて)もさても美事(みごと)に咲(さい)た事(こと)ぞアノ赤(あか)と白(しろ)との間(あひだ)にある一鉢(ひとはち)ハ珍(めづ)らしい花(はな)ぢや何(なん)と申すぞ 太「これで厶(ござ)りまするか是(これ)ハ團(だん)十郞(らう)と申して近年きんねん此花このはな)を造(つく)つたと申すことでことで厶(ござ)ります 大名シテ何故(なにゆゑ)に團(だん)十郞(らう)と申すのでおりやるぞ 太「これハ此色(このいろ)を俗(ぞく)に柿色かきいろ)と申し團(だん)十郞(らう)が十八番(ばん)の家(いへ)の藝(げい)暫(しばら)くの素袍(すはう)の色(いろ)と同(おな)じ色(いろ)ぢやによつて團(だん)十郞(らう)と名(なづ)けたと見(み)えまする — 朝顔大名 この記事では市川團十郎歌舞伎十八番「暫」に用い素袍の色が柿色であり、その色と同じ事から名付けられたとしている。明治27年1894年8月発行された『朝顔銘鑑』(東京百草園丸新 鈴木新次郎発行)には「常葉極大輪咲之部」内に「斑入濃キ覆輪一名團十郞」と記されている。また、明治33年1900年12月10日発行された『朝顏畫報第7号宇治朝顏発行)の「花名録」には丸咲きの部として「成田屋 黄州渋茶白覆輪大輪」と記されている。 他にも明治時代団十郎朝顔について、いつくかの文献記述がある。#団十郎朝顔の誕生の項に引用した岡の記述にもある入谷重鎮であった横山來の息子横山五郎語った明治時代入谷の朝顔についての思い出話岩本熊吉が『実用花卉新品種の作り方』の中で記している。 また其(そ)の頃の大輪物(たいりんもの)は、悉(ことごと)く鍬形くわがたは)であつて、(せみは)や、千鳥(ちどりは)はなく、せいぜい四寸位(すんくらゐ)であつて、最(もつと)も能(よ)く賣(う)れたのは亂菊咲(らんぎくざき)と云つて三寸(ずん)五分位(ぶぐらゐ)であつた。また一時(じ)、柿色かきいろ)を大層たいそう)好(この)み、之(これ)を團(だん)十郞(らう)といつてゐた。 — 岩本熊吉実用花卉新品種の作り方 演劇評論家伊坂が、以下のように記している。 どこの植木屋であつたか、柿色三升の線を取つた朝顏出來たので(是れは自然に出來たの歟)夫れ三升朝顏だとか、團十郞朝顏だと宣傳したので珍らし好きの江戸ツ兒は我勝ち見物出掛けたので、遂ひに九代目團十郞見物出掛けたと云ふ事が當時新聞出た事がある。 — 伊坂見た聞いたまた、アメリカジャーナリストエリザ・シドモアが「The Wonderful Morning-Glories of Japan素晴らし日本朝顔)」という記事を『The Century Magazine』に寄稿しており、その中で団十郎色の朝顔について触れている。 The whole family of dull grayish pink, or old rose, known as shibu (persimmon-juice) or kakeママ〕 (persimmon) color, are lately classed as Danjiro〔ママcolors, from the shibu-colored robe worn by that great actor in a favorite role.(訳)渋色柿渋色)または柿色として知られている、くすんだ灰色がかったピンク、またはオールドローズ品種はすべて、かの大役者が得意演目渋色衣装着ていた事から、最近団十郎色と分類されるようになった。 — Eliza Ruhamah Scidmore、The Wonderful Morning-Glories of Japan 俳人正岡子規明治25年1892年)に入谷近所である下谷区上根岸八十八番地転居明治27年1894年)に同八十二番地に移り以後没するまでここに住んだ(「子規庵」と呼ばれた)。子規のもとには赤木格堂五百木良三石井露月河東碧梧桐高浜虚子坂本四方太寒川鼠骨内藤鳴雪松瀬青々らが集い、「日本派」と呼ばれた子規当時入谷の朝顔ついていくつか句を残している。 蕣の入谷豆腐根岸哉 (明治26年朝顏入谷あたりの只の家 (明治27年入谷から出る朝顏の車哉 (明治31年団十郎朝顔について正岡子規河東碧梧桐高浜虚子が句に残している。 子規 朝霧や團十郞二三輪 (明治30年朝顏や團十郞の名を憎む (明治31年) 咲て見れば團十郞でなかりけり (明治32年碧梧桐 團十郞朝顏の名にいかめしき (明治31年虚子 團十郞朝顏の名に殘りけり(明治41年明治30年1897年)、子規郷里松山柳原極堂により俳句雑誌ほとゝぎす』が創刊された。明治31年1898年)には子規東京移して主宰し高浜虚子発行人となった明治34年1901年誌名を『ホトトギス』に変更した。『ホトトギス』で活動していた俳人村上鬼城渡邊水巴団十郎朝顔についての記述残している。 私は朝顏栽培(つくり)初めて廿年にもなる、其間、シヤツ一枚で、炎熱と戰て、船頭見たいになつちまツた最初は、團十郞だの、浴後美人だのツて朝顏(やつ)を栽培(つくつ)た、ラツパ咲の、釣瓶を取る性質(たち)のだ、其の時分朝顏の趣味は、野趣在るものとばかり思つてゐたから、從て一重咲(ご)く瀟洒(あつさり)したもの愛した。 — 村上鬼城第二年目 ‥‥來てみると、すでに、折目正し紅梅織着て腰に扇子差してゐる商家御隱居らしいのと、吉原(なか)の藝者半玉(おしやく)を連れた中年株屋さんらしいのとが、たくさんな鉢の一樣にずらりと咲き澄んでゐる朝顏見てゐた。まだ夜が明けたばかりなのである。 その花の、柿色のを團十郞と云ふ。それなら五郞と稱びたい。すると紺が左團治、白が權十郎、赤が福助絞りが源之助か‥‥。 ぐるりを葭簀で圍つてある内(なか)にも短夜名殘薄霞微かながら動いてゐて、冷や〱した大氣のながれが顏に觸れる。 — 渡邊水巴夏の風景 ―(明治時代も娯しかつたナと思ふ)―

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