嘉永安政期の流行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
文化・文政期における変化朝顔の流行は文政初期より次第に衰微していった。天保9年(1838年)刊行の『東都歳事記』には「多くは異様のものにして愛玩するに足らず、されば四五年の間にして、文政の始めより絶えしも宜(むべ)なり」とある。朝顔への熱は冷め、多くの園芸愛好家の関心は子万年青や松葉蘭に移っていった。もしくは文政の末から天保にかけて江戸の火災、飢饉や大塩平八郎の乱、天保の改革による倹約令なども重なり朝顔の流行は下火になったとする文献もある。岡はその間も愛好家は表面を憚りながら栽培を継続していたのではないかとしている。嘉永・安政期(1848 - 1860年)になると再び変化朝顔のブームが再来した。この時代に出現した変異としては、洲浜、乱菊、燕、手長牡丹、茎別牡丹などがある。また八重咲や牡丹咲と各種の変異が組み合わされ、獅子牡丹、台咲牡丹、車咲牡丹、蓮花咲牡丹、采咲牡丹など複雑な変異が生まれた。この時代の流行の中心人物として、武家代表としては旗本であった鍋島直孝、町人代表としては植木屋の成田屋留次郎がいた。鍋島直孝は石高5000石の大身の旗本で、北町奉行、大番頭などを務めた。杏葉館と号し、江戸飯田町もちの木坂に邸宅を構えていた。趣味家としてパトロン的存在であり、朝顔図譜『朝かほ三十六花選』の刊行を助け、自らも変化朝顔や撫子の奇品の育成を楽しんだ。成田屋留次郎は本名を山崎留次郎と言い、江戸入谷の植木屋であった。彼は『三都一朝』(嘉永7、1854年)『両地秋』(安政2、1855年)、『都鄙秋興』(安政4、1857年)を刊行し、また花合わせ会を通じて江戸の変化朝顔の発展に活躍した。この成田屋留次郎が明治時代に「団十郎」と名付けられた朝顔を入谷で売り出した。
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