嘉永小田原地震
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嘉永6年2月2日(1853年3月11日)。マグニチュード6.7程度。推定されている各地の震度は、6から7が小田原(特に東南部)・塚原・金子、6が布川・中沼・関本・山田・矢倉沢・最乗寺・高尾、5強から6が川村・中日向・巣雲川・仙石原で、江戸でも震度4から5程度の揺れであったとみられている。本震は午前10時過ぎ頃に発生し、10分から15分の間に2度の地震が起こったと考えられている。本震後も余震が続いたが翌日夕方4時頃に最大余震があり、さらに被害が出た。 最も強く揺れた小田原では、天守の瓦や壁が落ち、小田原城三の丸の藩校集成館が倒壊した。全壊した家は1,032戸、半壊した家は2,477戸、被害が出た家は544戸。死者も24人出た。箱根、根府川関所にも被害が出た。箱根など341か所で山崩れが起こり、真鶴(真鶴町)にも被害を与えた。真鶴湊では津波による引き波がみられたが被害はなかった。江戸城でも大手門の渡櫓内の壁がすべて落ちた。東海道は道路や関所などが被災したため1週間ほど通行不能となった。 各地の震度は以下の通り。(いずれも推定) 震度地域7小田原 塚原 金子 6布川 中沼 関本 山田 矢倉沢 最乗寺 高尾 5川村 中日向 巣雲川 仙石原
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