中世の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 08:10 UTC 版)
現代のカリシュは、城代の直轄区及び小規模砦として、9世紀頃につくられたとされる。ケルト語で川の流れを意味するcal、もしくは古い西スラヴ語で泥沢地か湿地を意味するkalから名前が生じた。1106年、ポーランド王ボレスワフ3世が町を攻略し、彼の封土と併合した。1253年から1260年の間、町はシロンスク(シレジア)のシロダ・シロンスカ (en:Środa Śląska) の次に、マクデブルク法の地方令であるドイツ特権都市令 (de) によって特権を授けられ、すぐに成長を始めた。ヴィエルコポルスカ地方有数の裕福な町となり、中世ポーランドの封建制分裂時代には、ポーランド王家であるピャスト家の分枝によって治められる独立公国を形成していた。ポーランド再統合後、町は織物業と林業の中心として知られるようになった。同時に、ヴィエルコポルスカの文化の中心であった。一帯の経済成長にはJednota bratrská (Bracia czescy)(日本語ではボヘミア兄弟団と訳される)という多くのフス派プロテスタント移民も寄与した。彼らは、フス戦争後にボヘミアから追放されカリシュとその周辺へ定住していたのである。 そしてユダヤ人も、1139年頃からカリシュへ定住した。1264年には、ユダヤ人の自由と安全を保障する「カリシュの法令」が発布された。当初はカリシュを含めた大ポーランド公国の法律であったが、まもなくこれはポーランド王国全体の法律に昇格した。これによりポーランド王国の社会はユダヤ人にとって住みよいものとなり、ドイツなどといった当時のヨーロッパ各社会でペスト禍をめぐる集団ヒステリーによりひどく迫害されていたユダヤ人たちは安住の地を求めて大挙してポーランドへ移住してきた。また、他国とは生活習慣が異なり都市でも密集居住や不衛生な環境を嫌うポーランドでは、大規模なペスト流行が起きなかった(右図参照)ため、ペストをめぐる奇妙な反ユダヤ主義的迷信も広がらなかった。これによってポーランドはヨーロッパで最大のユダヤ教徒人口を抱える国となっていく。 1282年、市令がプシェミスウ2世によって認証され、1314年には、ヴワディスワフ1世の定めたポーランドの地方行政区画の一つ、カリシュ県の首都となった。通商の有名な中心として、カリシュは多かれ少なかれポーランドの中心地の地位にあった。戦略的要所にあることから、1343年にカジミェシュ3世がこの地でドイツ騎士団とカリシュ条約に署名している。王立特権都市として、市は事実上の特権に守られ、1426年にはタウンホールが完成した。そして、ポーランド王ミェシュコ3世はカリシュに埋葬されている。
※この「中世の繁栄」の解説は、「カリシュ」の解説の一部です。
「中世の繁栄」を含む「カリシュ」の記事については、「カリシュ」の概要を参照ください。
中世の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:25 UTC 版)
鎌倉時代の尾道における交易品は塩や鉄・布製品など。この当時から商人だけでなく刀鍛冶や石工など職人も暮らしていた。中国山地で生産された鉄(たたら製鉄)が沼田小早川氏の三原(三原市)まで運ばれ刀鍛冶として育っていき、小早川氏等への供給による利潤獲得のため尾道でも刀鍛冶が行われるようになった。天平年間(729年から749年)から創業した“其阿弥家”は現在でも存続している。当時から近年まで鍛冶業が盛んであったとわかっている。また石工が発達したのは鎌倉時代後期から室町時代にかけてで、現在重要文化財に指定されている宝篋印塔や五輪塔にはこの時代に造られている。また問丸(海運業者)は他領の年貢輸送も行っており利益を得ていた。 建武3年(1336年)、建武の新政後九州に落ち延びる足利尊氏は途中で浄土寺に参拝、再び京へ東上(建武の乱)の途中にまた浄土寺に参拝し戦勝祈願している。尊氏が鞆(福山市)で光厳上皇の院宣を獲得し勢力を拡大していったのは、この後のことになる。この鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、幕府の弱体化によりこの地の守護や海賊たちが力をつけ独立し、尾道の周辺にも砦そして城が造られた。現在尾道で行われている吉和太鼓おどりの起源は諸説あるが、一説には尊氏が尾道から九州に向かうときに水先案内人を務めたのが吉和の漁師たちで、尊氏の戦勝を祝って踊ったのが始まりとされている。 応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』によると、この時代の尾道は漁師町を主体とした港町であったこと、現在のように山と海に挟まれた狭小地に民家が密集していた。対岸の歌島(向島)沿岸部では製塩が盛んであった。港には陸奥や筑紫から交易船が来ていた。歌島(向島)や生口島など周辺島嶼部で生産された塩などの物産を取り扱うことで、尾道はさらに交易港として発展した。現代になって行われた発掘調査から、沿岸部の埋め立て・土地造成は室町時代から活発化したことがわかっている。 この地は中国地方を勢力下においた山名氏が支配していたが明徳の乱で室町幕府に敗れ没落した。この頃、将軍足利義満が天寧寺に宿泊、応永2年(1395年)義満は備後大田庄含めた6個郷地頭職、そして尾道・倉敷を高野山西塔へ寄付している。応永の乱の手柄により再び山名氏が守護として返り咲くと、尾道は山名氏領内の重要港として発展していく。 日明貿易が始まり、尾道にも遣明船が停泊、中には尾道船籍のものも存在していた。発掘調査において、この年代の地層から瀬戸焼・常滑焼・備前焼・東播系須恵器のほか、中国青磁・白磁、朝鮮陶磁器も出土していることから、かなりの規模の商業活動が行われていたと考えられている。 この時代に、将軍足利氏による新たな建立や西國寺が守護山名氏の庇護で再建されるなど「寺のまち」の基盤が形成され、商人たちは彼ら権力者の庇護を受けつつ尾道を自治運営していた。特に現在時宗の寺院が6ヶ寺あるのも尾道の特徴である。 中世の建築物が現存する寺院。中世には長江・十四日と久保に入江があった。尾道本通り付近がかつての海岸線であり、15世紀から16世紀前半には埋め立てられ道として整形されていた。 尾道を代表する風景の一つ、天寧寺から東方向を撮影したもの。この寺は尊氏の意思を継いで足利義詮が工事を寄進、普明国師を請して開山した。左に見える塔婆は嘉慶2年(1388年)建立。 常称寺。遊行2代他阿により開基。尾道における時宗寺院の最高位。暦応3年(1340年)尊氏が七堂伽藍を建立したが現存せず。 西郷寺。遊行6代一鎮により開基。文和2年(1353年)建立の本堂は、現存最古の時宗寺院本堂になる。尊氏から院号や本尊である念持仏(阿弥陀如来立像)をもらい受けたという伝承が残る。 西國寺金堂。至徳3年(1386年)建立。西國寺は守護山名氏から庇護を受けた。 西國寺三重塔。永享元年(1429年)足利義教が建立。この寺は真言宗醍醐派大本山であり、尾道商人の寄進を多数集めた寺でもあり、中世・近世の伽藍が多数ある。 室町後期から戦国時代までの間、豪族や海賊が武力で台頭していく下克上の時代である。この地を掌握できる位置にいくつか城が築かれている。またこの時代この地域の特色として因島を拠点とした因島村上氏(村上水軍)の存在がある。尾道水道の中間部の島、現在は丘陵として向島と陸続きとなっている小歌島地区は“宇賀島衆”と呼ばれた海賊の拠点で、商船から関料を徴収していたが滅ぼされ、のち村上水軍の支城となったとされている。これらの勢力は中国覇権を目指した毛利氏の傘下となった。 尾道駅から見る千光寺山。頂上にはかつて木梨杉原氏(杉原元清あるいは杉原元恒)により「千光寺山城」が築かれた。なお写真に見える尾道城は現在取り壊されている。 山城「丹花城」跡。寛永7年(1630年)福善寺が移転してきた。丹花城主の墓とされる巨大な五輪塔2基がある。 千光寺展望台からの向島。中央の小さな山が小歌島(オカジマ)地区。
※この「中世の繁栄」の解説は、「尾道」の解説の一部です。
「中世の繁栄」を含む「尾道」の記事については、「尾道」の概要を参照ください。
- 中世の繁栄のページへのリンク