中世の経済
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市場は毎週一定の日に開かれており、また規模の大きな市場も毎年固定の日に開催されていた。荘園領主は、こうした市場の開催に当たって勅許を求める必要があった。毎週水曜日に市場を開く権利は、エドワード3世によって1332年4月25日にタイズ卿の姉妹でウォリン・ド・リール (Warin de Lisle) の未亡人である、アリス・ド・リール (Alice de Lisle) に対して認められた。8月1日の聖ピーター・アド・ビンキュラ (St Peter ad Vincula) の祭りに際して7日間続く市場と、また8月24日の聖バーソロミュー (St Bartholomew) の祭りに際して7日間続く市場があり、後者がペンザンスで開催されていた。1404年4月8日にヘンリー4世によって毎週水曜日の市場と、さらに3つの2日間の市場開催が認められたため、その重要性からこの植民地は成長していった。この2日間の市場開催は、無原罪の御宿りの祭り(12月8日)、聖ピーター・イン・キャシードラ (St Peter in Cathedra) の祭り(2月22日)、聖母マリア生誕祭(9月8日)である。 認可の勅許状がないため、ペンザンスの埠頭がいつ建設されたのかは不明である。しかし、1322年にアルバートン荘園に対しての調査では、1隻あたり2シリングを払う漁船が8隻おり、またマウゼルに12シリングを払うものが特定できない数いるとある。また荘園外の漁師が小屋を借りた場合の8シリングの支払いも定められていた。1327年の2回目の調査では、ペンザンスでは13隻に増加しており、マウゼルでは16隻が記録されていたが、両者とも1シリングだけの支払いとなっていた。小屋の借り賃は8/6ペンスで、また17軒の借家人が6ペンスずつ払っていた。どちらの調査でも、ペンザンスからは29人の、マウゼルからは40人の選出議員がいたと記している。選出議員は、個人的な勤務ではなく現金で借り賃を払っており、またペンザンスとマウゼルは町とされていたことを示す。西コーンウォールの居住地の比較は漁船の数に基づいて決められる毎年の支払いで比較でき、コーンウォール公領の1337年の記録では、ポーティア(Porthia、セント・アイブス)は6ポンド、モースホール(Mosehole、マウスホール)は5ポンド、マーカジオン(Marcasion、マラザイアン)は3ポンド、ペンザンス(Pensanns)は12シリング、ロンデスエンデ(Londeseynde、ランズ・エンド)は10シリング、ニューリン(Nywelyn)は10シリング、ポートミンスター(Portmynster)は2シリングとなっている。1425年、1432年、1440年には、ペンザンスの船が北部スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの神殿へ巡礼者を運ぶ許可を得ている。 中世およびその後の時期、ペンザンスは「トルコ海賊」(実際にはバーバリー海賊)にしばしば襲われた。1614年にペンザンスが勅許自由都市の地位を獲得する以前の時期は、この村と周辺地域はアルバートン荘園の支配下にあり続け、荘園の課税体系の下にあった。
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