中世の街としての起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 07:47 UTC 版)
街の創建は1158年とされている。これは日付が言及された最も古い唯一の文書からである。文書はアウクスブルクで署名されたものである。当時、ヴェルフ家のハインリヒ獅子公 (ザクセン公兼バイエルン公) が1157年/1158年、フライジング(Freising)の司教が Oberföhring 近く、イーザル川に設置していた関税徴収橋(Zollbrücke)を破壊し、ライヘンハル(Reichenhall)からアウクスブルクに至る「塩街道」(Salzstraße)(付属する市場と造幣所を含め)を、イーザル川を約 5km 遡上したバイエルン公領に移し、ミュンヘンを都市として整備した。1175年、公式に都市としての地位を得て、城壁が備えられた。 1180年のハインリヒ獅子公の破門以後、ミュンヘンはフライジングの司教の管轄下に入った。1240年にヴィッテルスバッハ家のバイエルン公がこの地に根を下ろした。1255年のレーゲンスブルクの帝国都市化とバイエルンの分割以後、オーバーバイエルン(Oberbayern)のミュンヘンはヴィッテルスバッハ家の公領本居地(Residenz der wittelsbacher Herzoge)となり、商工業が繫栄した。都市君主は公爵であったが、1294年には包括的な権利が付与されている。1400年ころには、塩取引・イタリア貿易を担う都市貴族による支配が形成された。1500年ころには、約14000人の人口を有する人口の多い都市になったが、中世をとおしてミュンヘンは地域的重要都市に留まり、その影響力はバイエルン公領内でもニュルンベルク、アウクスブルク、レーゲンスブルクの後塵を拝した。 1314年に神聖ローマ帝国皇帝に選ばれ1328年に戴冠したルートヴィヒ4世により、ミュンヘンには塩の専売地位が与えられ、都市として強化され収入が保証された。15世紀後半、ミュンヘンはゴシック芸術が復活し旧市庁舎が拡張された。ミュンヘン最大のゴシック建築で現在の大聖堂であるミュンヘン聖母教会(英語版)は1468年の着工から僅か20年で完成した。
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