ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公
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「バイエルン大公」の記事における「ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公」の解説
1180年にヴィッテルスバッハ家のオットー1世がバイエルン公になって以来、1918年にバイエルン王国が共和制に移行するまで、常にヴィッテルスバッハ家がバイエルンの君主であった。1214年にはルートヴィヒ1世がプファルツ選帝侯位も獲得、1328年にはルートヴィヒ4世が皇帝になったが、分裂と統合を重ね、一家内での内紛が絶えなかった。このためバイエルンは部族大公の伝統を引く有力諸侯でありながら選帝侯になれなかった。バイエルンが統合されるのは1504年になってからのことである。 16世紀に入ってドイツが宗教改革により新旧両派に分裂すると、プファルツのヴィッテルスバッハ家はプロテスタントの、バイエルンのヴィッテルスバッハ家はカトリックの盟主として激しく対立した。三十年戦争でプファルツ選帝侯フリードリヒ5世が皇帝フェルディナント2世とバイエルン公マクシミリアン1世の軍に敗れて国外に亡命すると、フェルディナント2世はマクシミリアン1世にプファルツを与え、選帝侯の地位につけた。この行為は金印勅書という帝国法に反するものであったから、諸侯の憤激を買った(三十年戦争長期化の一因とも言われている)。結局バイエルンは1648年、ヴェストファーレン条約でプファルツに代わって選帝侯の地位を獲得した(同時にフリードリヒ5世の子カール1世ルートヴィヒは新設のプファルツ選帝侯として認められた)。
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