ヴィッテルスバッハ家のライン宮中伯
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「ライン宮中伯」の記事における「ヴィッテルスバッハ家のライン宮中伯」の解説
オットー2世は後に父親のルートヴィヒ1世からバイエルン公位を相続している。その後の継承は複雑であるが、結局オットー2世の曾孫アドルフの子孫がライン宮中伯位と選帝権を保持する事となった。バイエルン公はアドルフの叔父ルートヴィヒ4世の子孫が継承、前者はプファルツ系ヴィッテルスバッハ家に、後者はバイエルン系ヴィッテルスバッハ家に分かれていった。 宗教改革においてライン宮中伯はカルヴァン派を支持、1608年にはプロテスタント諸侯を糾合して新教連合を結成、1619年にはカトリックのハプスブルク家の支配を嫌うプロテスタントのボヘミア貴族からライン宮中伯フリードリヒ5世がボヘミア王に選出された。これが三十年戦争の始まりである。しかしフリードリヒ5世は1620年に白山の戦いで敗れ、母の実家のあるオランダに亡命した。 1623年、ライン宮中伯領は皇帝軍によって占領された。皇帝フェルディナント2世は宮中伯の位を、カトリック諸侯の領袖でありフリードリヒ5世と同じヴィッテルスバッハ家のバイエルン公マクシミリアン1世に与えた。金印勅書によって保護されている選帝侯の位を皇帝が剥奪し、勝手に授与したこの行為は、三十年戦争長期化の原因となった。 1648年、ヴェストファーレン条約により、フリードリヒ5世の子カール1世ルートヴィヒがライン宮中伯位に復帰、代わりにバイエルン公も選帝侯となった(正確には、ライン宮中伯の選帝侯位をバイエルンが引き継ぎ、ライン宮中伯は新設の第8の選帝侯となった)。また、バイエルンとライン宮中伯が同君連合した場合には、ライン宮中伯の選帝権は失われることとなった。 1685年、カール1世ルートヴィヒの子カール2世が亡くなると、カール2世には嫡子はなかったため、男系で遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承した。ドイツでは男系にのみ継承権があったのでこの継承には問題はなかった。しかし、伝統的にライン宮中伯はカルヴァン派であったが、フィリップ・ヴィルヘルムはカトリックである、という問題があった。また、フランス王ルイ14世はカール2世の妹婿にあたる自らの弟オルレアン公フィリップ1世の継承権を主張し、プファルツに軍を進めた。これに対し、神聖ローマ帝国の諸侯、スウェーデン、オランダ、スペインなどからなるアウクスブルク同盟諸国が対抗し、戦争となった(プファルツ継承戦争)。戦争の結果、フィリップ・ヴィルヘルムの子ヨハン・ヴィルヘルムはライン宮中伯位を保持(フィリップ・ヴィルヘルムは戦争中に死去、その他の戦争の結果についてはレイスウェイク条約を参照)。以降、プファルツは次第にカトリック化することとなった。 1742年、ヨハン・ヴィルヘルムの弟カール3世フィリップが死去したが嗣子がなく、ライン宮中伯位は再び遠縁のプファルツ=ズルツバッハ公カール4世フィリップ・テオドールがライン宮中伯となった。1777年にバイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが嗣子なく死去、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家が断絶すると、カール4世フィリップ・テオドールはバイエルン選帝侯位をも継承した。これによりバイエルンとライン宮中伯の両ヴィッテルスバッハ家は統合され、ヴェストファーレン条約の規定によりライン宮中伯としての選帝侯位は消滅した。
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