ヴィッテルスバッハ家からポツダム勅令まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)
「ベルリンの歴史」の記事における「ヴィッテルスバッハ家からポツダム勅令まで」の解説
1320年にハインリヒ2世が没してアスカニア家が断絶したことで、ハインリヒ2世の母方の叔父で当時神聖ローマ皇帝でもあったヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世は1323年に自らの長男であるルートヴィヒ(ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世)を新たなブランデンブルク辺境伯に封じた。ブランデンブルクを手中に収めるとヴィッテルスバッハ家は強圧的な統治を始めた。1325年にはベルリン=ケルンの司祭で皇帝に反抗していた教皇派のニコラウス・フォン・ベルナウを焼殺したことにより、ローマ教皇はベルリンに対してインターディクト(聖務禁止令)を下した。 1373年、ルクセンブルク家のカール4世がオットー5世(ルートヴィヒ4世の6男)からブランデンブルクを買収して長男のヴェンツェルに与えたが、1380年にはベルリンで大火災が発生し、市庁舎や教会の建物に壊滅的な被害を与えた。 1415年、ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世がジギスムントからブランデンブルクを与えられて選帝侯となり、1440年までブランデンブルクを治める。その後ホーエンツォレルン家は1918年まで、当初はブランデンブルク選帝侯として、その後プロイセン公、プロイセン国王、ドイツ皇帝としてベルリンを治めていくことになる。しかしながらベルリン市民はそういった変革を必ずしも歓迎していたわけではなかった。1448年にはフリードリヒ2世鉄歯侯の新宮殿建設に反対してベルリン反乱(ドイツ語版)が起こる。ところがこの抵抗は成功せず、市民は政治的にも経済的にも自由を失うこととなった。1451年、ブランデンブルク選帝侯はケルンに王宮を建設した。 ホーエンツォレルン家の拠点となったことにより、ベルリンはハンザ都市の地位をやむなく放棄した。また経済活動は通商から貴族階級向けの贅沢品の生産へと転換していった。人口は急速に増加し、1600年ごろには12,000人ほどとなるが、同時に貧困も増加した。この間にはユダヤ人が迫害されることがあった。1510年にはホスチアを盗んで穢したとして100人のユダヤ人に嫌疑が向けられ、そのうち38人が焼殺、2人は後にキリスト教に改宗するが斬首、残りのベルリンにいたユダヤ人は追放された。ただこの30年後には彼らの無実が認められ、ユダヤ人は、金銭を払うことを条件に再びベルリンに居住することが許された。しかし1573年に再度ユダヤ人は追放され、その後100年間は戻ることが許されなかった。 1539年、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世はブランデンブルクにおいて宗教改革を行い、教会の世俗的な領地を差し押さえた。これによって得られた資金はグルーネヴァルト狩猟宮殿(ドイツ語版)と居城であるベルリン王宮とを結ぶ道路、クーアフュルステンダム(ドイツ語版)の建設といった大規模な事業に投じられた。1567年、ベルリンとシュパンダウとの間で3日間に及ぶ戦争(棍棒戦争(ドイツ語版))が起こる。この戦争はもともとベルリンとシュパンダウに分かれて模擬戦闘を行っていたものだが、負ける役を与えられたシュパンダウがこれを拒んだことから実際の戦争に発展し、最終的にはベルリンがシュパンダウに大勝する結果となった。 17世紀前半、三十年戦争によりベルリンは被害を受ける。市内にあった家屋の3分の1が損壊し、人口は半減した。1640年、のちに大選帝侯として称えられるフリードリヒ・ヴィルヘルムが父親の死去を受けてブランデンブルク選帝侯を継承する。フリードリヒ・ヴィルヘルムはまず移民の受け入れと宗教寛容策を打ち出す。また市域の拡張開発やフリードリヒスヴェルダー(ドイツ語版)、ドロテーエンシュタット(ドイツ語版)、フリードリヒシュタット(ドイツ語版)といった周辺地区を築いていった。1671年、オーストリアから追放された50人のユダヤ人に住居が与えられた。1685年、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダム勅令を下してフランスのユグノーを受け入れた。このとき15,000人を超えるフランス人がブランデンブルクに移住し、そのうち6,000人ほどがベルリンに住むようになった。1700年ごろにはベルリン市民のうち20%ほどがフランス系住民となり、ベルリンの文化に大きな影響を与えた。このほかにもベーメン(ボヘミア)、ポーランド、ザルツブルクからベルリンへ移民が集まってきた。またフリードリヒ・ヴィルヘルムはこのころ常備軍を整備した。
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