ヴィッテルスバッハ朝時代
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「バイエルン公国」の記事における「ヴィッテルスバッハ朝時代」の解説
その出自に関してはルイトポルト家の末裔ではないかとの説があるバイエルン公オットー1世は、フリードリヒ1世に仕える最良の騎士であった。そのオットー1世が獲得したバイエルンの領域はシュタインマルク辺境伯領(ドイツ語版)が公爵の地位を授けられたことで最終的に分離したことで未だ縮小されたままであった。しかし、息子のルートヴィヒ1世(1231年没)の代には領域は著しく拡大することになる。1214年に婚姻に伴い新鋭ローマ皇帝フリードリヒ2世よりライン宮中伯領を拝領したのである。 ルートヴィヒ1世の息子でフリードリヒ2世のかつての忠実な味方であったオットー2世(1253年没)は国内の完全独立を目指す司教権力と不和となり、衝突した。フリードリヒ2世に対して完全に忠誠を尽くしたことから、オットー2世はローマ教皇によってカトリック教会から破門されている。 オットー2世没後のバイエルンは、ヴィッテルスバッハ家の系統間で細分化の道を辿ることとなる。既にオットー2世の息子であるルートヴィヒ2世(1294年没)とハインリヒ13世(1290年没)は2年間は共同統治をしていたものの1255年に領地を分割している。前者がミュンヘンを首都とする上バイエルン(ドイツ語版)とライン宮中伯領を、後者がランツフートを中心とする下バイエルン(ドイツ語版)をそれぞれ統治することとなったのである。加えて2人の兄弟は共にシチリア国王シャルル・ダンジューによって処刑されたホーエンシュタウフェン家の最後の統治者コッラディーノの遺産をも手に入れた。ルートヴィヒ2世が死ぬと、ライン宮中伯を次男のルドルフ1世が、上バイエルンを三男のルートヴィヒ4世(1282年-1347年、1314年にローマ王に選出され、1328年にローマ皇帝に戴冠する)が相続することで両者は分離した。 ルートヴィヒ4世はヴィッテルスバッハ家の領地を著しく増大させた。1329年にパヴィーアにて兄ルートヴィヒ2世の遺児たちに最終的にライン宮中伯領とオーバープファルツの支配権を委ねる取り決めを結んだ。この取り決めにより、両家とも女子には領地及び相続権を譲る権利が剥奪されて(サリカ法の採用)、ライン宮中伯の地位はこれ以降双方の家系が交互に所有することとなった。しかし、1356年に制定された金印勅書により、プファルツ系のヴィッテルスバッハ家が選帝侯位を獲得することが最終的に決議された。1340年に下バイエルン系のヴィッテルスバッハ家が断絶したことにより、バイエルンはルートヴィヒ4世のもとで再び一つとなった。しかもルートヴィヒ4世はマルガレーテ・フォン・ホラントと結婚したことで、ホラント伯領(オランダ語版)、ゼーラント伯領(オランダ語版)、エノー伯領といったネーデルラント一帯を獲得したのである。さらにはブランデンブルク辺境伯をも手に入れ、これまた婚姻関係を通じて長男のルートヴィヒ5世にチロル伯領(英語版)を授けた。バイエルンの秩序が著しく向上したのはルートヴィヒ4世の統治に負うところが多い。ルートヴィヒ4世はミュンヘンに権利を与え、上バイエルンのためには民法を下バイエルンのためには新たな訴訟手続きをそれぞれ発した。 ルートヴィヒ4世は6人の息子と豊かな遺産を残した。当初、バイエルンは兄弟間の共同統治下におかれていたが、1349年に分割が開始され、最初は再び上下に分裂した。1353年に下バイエルンはバイエルン=ランツフートとバイエルン=シュラウビング(ドイツ語版)に分裂した。1363年にルートヴィヒ5世の息子マインハルトが死ぬと、上バイエルンはバイエルン=ランツフートとバイエルン=シュトラウビング間で分割された。1392年にバイエルン=ランツフートからバイエルン=インゴルシュタットとバイエルン=ミュンヘンが分離した。しかもチロル、ブランデンブルク、ネーデルラント一帯も徐々に失われていった。 バイエルン系ヴィッテルスバッハ家の諸系統が断絶するたびに領地の分割と争いが開始され、それはしばしば武力衝突に発展することになった。1432年にバイエルン=シュトラウビングの領地はバイエルン=インゴルシュタット、バイエルン=ランツフート、バイエルン=ミュンヘン間で分割された。1447年にバイエルン=インゴルシュタットはバイエルン=ランツフートに併合された。1467年にジギスムントのためにバイエルン=ミュンヘンからバイエルン=ダッハウが分離したもの、1501年にジギスムントが死ぬと、その遺領は再びバイエルン=ミュンヘンに回収され、1503年にはバイエルン=ランツフートもバイエルン=ミュンヘンに合併された。 1505年にバイエルン=ミュンヘン家のアルブレヒト4世狡猾公のもとで、バイエルンは統一されたことが明白となった。アルブレヒト4世はそれまでに至る領地の分割で蒙った被害合計への意識から、最初に生まれた男子による単独かつ領地の分割禁止の公位継承法の承認を得ることに努めた。この継承法に従って、ヴィルヘルム4世、ルートヴィヒ10世、エルンスト(ドイツ語版)の3人の息子のうち、ヴィルヘルム4世が唯一の後継者となった。 しかし1508年にアルブレヒト4世が死ぬと、ヴィルヘルム4世(1550年没)とルートヴィヒ10世(1545年没)の共同統治という新たな分割が行われた。両者は多数の支持者を取り付けるなどして互いの改革を協力し合ったが、その際に遭った最も決定的な抵抗は、1541年のバイエルン国内のイエズス会の召集である。ルートヴィヒ10世が没したことで、バイエルンは再びヴィルヘルム4世のもとで一つになったことは明白となり、その息子であるアルブレヒト5世もまた別のイエズス会であったが同時に芸術と科学を保護している。その後を1579年に継いだヴィルヘルム5世は1597年の議会で、長子のマクシミリアン1世に譲位して自らは引退することを余儀なくされた。 多彩な才能の持ち主であったマクシミリアン1世は、反プロテスタント同盟の指導者であった。三十年戦争の際にはローマ皇帝フェルディナント2世から1623年にプファルツ選帝侯領を授けられているが、その内実はフェルディナンド2世が戦費の担保としてオーバープファルツを与えたというものであった。ヴェストファーレン条約で、マクシミリアン1世の選帝侯としての地位とオーバープファルツの領有権は確たるものとなると同時に、プファルツ=ジンメルン家には8つの領地からなる新プファルツ選帝侯領が創立され、マクシミリアン1世の子孫が絶えた時にはバイエルンを継承する権利があることも確認された。かくしてバイエルン公国は再編され、バイエルン選帝侯領と称されるようになる。
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