スポーツ界など、社会全体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:15 UTC 版)
「巨人の星」の記事における「スポーツ界など、社会全体」の解説
長嶋茂雄の巨人軍入団(1958年)に始まり、V9、中断をはさんで第一次長嶋政権の4年目(1978年)の中途、『新巨人の星』として完結した。この時代は、日本が敗戦の混乱期から立ち直り、高度経済成長を経て経済大国を自認し始める頃に当たっている。 東京オリンピック(1964年)を前にした交通整備で、一徹のような日雇い労務者も仕事が急増し、収入が増えたことが描写されている。当時高級品だったTV購入も、いわゆるお坊ちゃま学校だった青雲高校への飛雄馬の入学も、こうした五輪景気の建設ラッシュ期における一徹の昼夜兼行の超人的な働きがなければ不可能だった。なお、インフラ整備や再開発はその後も続き、飛雄馬が生まれ育った長屋も取り壊されている。 登場人物(花形、伴、川上監督夫妻、オズマ)たちが海外に出かける、あるいは戻る場面では、舞台は羽田空港。乗客は建物から徒歩で飛行機に向かい、タラップを使って乗降していた。機材もDC-8と思しきナローボディ機材だった。国内線での移動も多々あるが、ボーイング727は登場しない。 主要登場人物の中では、星一徹、川上哲治、水原茂らが太平洋戦争への従軍を経験している。アニメ版オリジナルストーリーで水原のシベリア抑留時代の強制労働体験、沢村栄治、吉原正喜など戦没野球選手の逸話も描かれた。一方、主人公飛雄馬は、台湾の日本統治時代を知らないか、知識としては知っていても現地で日本語が通じることには驚いてしまう世代になる。劇中で中国(中華民国)側が飛雄馬たちを歓迎する文字「歓(歡)迎」「棒球団(團)」などは、戦後日本の当用(常用)漢字だった。一部の巨人選手は中華民国側の歓迎の印だった爆竹に驚いて、川上監督から説明を受けていた。台湾キャンプ当時(1968年)は中国本土との国交回復(1972年)の前。 速水はメキシコオリンピック(1968年)の陸上競技で代表候補だった。なお、速水のキャラクター造形の参考にされたと推測される飯島秀雄もやはりメキシコオリンピックの代表選手である。 星飛雄馬が左腕投手として巨人に入団した1967年当時、現在の東京ヤクルトスワローズがサンケイアトムズ、横浜DeNAベイスターズが大洋ホエールズ、オリックス・バファローズが阪急ブレーブスと近鉄バファローズ、北海道日本ハムファイターズが東映フライヤーズ、福岡ソフトバンクホークスが南海ホークス、千葉ロッテマリーンズは東京オリオンズ(物語後半でロッテオリオンズ)、埼玉西武ライオンズが西鉄ライオンズだった。また、東北楽天ゴールデンイーグルスは2005年新規参入のため当時存在していなかった。 まず、阪急は日本シリーズのパ・リーグ代表として何度も登場する。 1968年、西本監督は飛雄馬の大リーグボール1号を打倒するため、スペンサーに花形そっくりの特訓をさせたが、1号の「最後の完成の姿」に敗れ、翌1969年も阪急打線は消える魔球の前に沈黙。 阪急の長池は1968年の日本シリーズでは大リーグボール1号を続けて2球受け、最初はファウル、次に投飛で打ち取られた。次に1970年にはオールスターで対戦したが、飛雄馬が精神的に不調だったために1号は2球続けてバットに当たらず花形がカバー。続いて飛雄馬の投げた「スピードの死んだ直球」を長池は激怒の一打。これは左門の美技に阻まれた。 『新〜』では1975年の日本シリーズ、上田監督の阪急が広島に勝って日本一になるところを、伴が長嶋邸に向かう車のラジオで聴いていた。 1976年、上田阪急は投手守備が未熟な右腕・飛雄馬をピッチャー返しで狙い、これはスクリュー・スピン・スライディングの応用で破られるものの、「巨人を破って日本一」の悲願を達成。翌1977年も打者・飛雄馬に本塁打を許すが、阪急を含めた各球団の打者の目も飛雄馬の速球に慣れて、巨人の日本一を阻む。そこで飛雄馬は「大リーグボール右1号」の必要性を感じる。 1967年末、二軍だった飛雄馬が速球投手としてプロ初勝利を飾った時の相手が東映フライヤーズ。漫画では東映のユニフォームのチーム名が「FLYARS」となっているが、正しくは「FLYERS」である。1970年のオールスターで飛雄馬と対戦した張本は東映フライヤーズの選手だったはずだが、胸の文字は筆記体で「Flyers」か「Fighters」かわかりにくい。『新〜』の伴と長嶋の会話で張本移籍話が出たとき、原作ではすでに巨人のユニフォームを着た張本が描かれたが、アニメでは「Fighters」の文字と日ハム時代の張本のイラストが出た。 1958年、巨人に入団したての長嶋が「国鉄スワローズ」の金田と対戦し、連続三振。これは飛雄馬のクラスでも話題になっており、のちに1969年、飛雄馬と伴が参加した金田の引退記者会見でも、金田と長嶋が話題にしていた。1967年、巨人OBの別所が「産経の新監督」として紹介され、1969年、飛雄馬が一度自滅した大リーグボール1号を復活させた時、対戦相手がアトムズ二軍。1969年、星飛雄馬の消える魔球の投球フォームを初めて観た長嶋と王が、足の上げ方を「アトムズの別所監督の現役時代」と比較していた。1977年、『新巨人の星』の花形満の入団当時はヤクルトスワローズになっている。 1968年、飛雄馬と伴が放送席で観戦したオールスターで花形は「近鉄の超速球・鈴木投手」と対戦してレフトフライに倒れ、次の1969年、飛雄馬が出場辞退したオールスターで、花形は「近鉄のエース鈴木」からヒットを放って、雪辱を果たしている。 1970年、飛雄馬は近鉄とのオープン戦で太田幸司と投げ合い、左門の方法で大リーグボール2号に挑戦した土井正博を三振に打ち取っている。また、報道陣のリクエストに応え、試合後に太田と握手もしている。1970年、飛雄馬にとって「屈辱の"夢の球宴"」となったオールスターでは太田幸司と王貞治の対戦が描かれたが、結果は不明。 1969年〜1971年の黒い霧事件も作中で利用され、左門が映画館内で痴漢に間違われる描写(実際は京子による示談金目当てのでっち上げ)があり「黒い霧の次はピンクの霧か」という描写がある(この出会いがきっかけとなり左門と京子は結婚する)。 中日に移籍した伴は南海とのオープン戦に代打で出場し、皆川睦男、野村克也のバッテリーに三振に打ち取られている。その試合で、後にホームラン王を2度獲得するジョーンズが一塁を守っている。 同じく1970年、飛雄馬が2度のオールスターで対戦した当時の野村克也は南海の選手兼監督(プレイングマネージャー)だった。 この試合で野村の後に飛雄馬と対戦したアルトマンはロッテオリオンズ所属。 星一徹は我が子飛雄馬との戦いについて記者団に質問された際「西鉄の中西(太)監督に止めを刺し、休養に追い込んだのは、義理とはいえ父の近鉄・三原(脩)監督」と、同様の例に引いている。 『新〜』で1975年が舞台の「泥濘の章」では一徹が花形満に「レオ・ドローチャーを監督に迎えたがった酔狂な球団もある時世」と言っており、これは『新〜』連載開始当時の1976年に太平洋クラブライオンズがドローチャーに監督就任を要請した件と推測される。 1978年の正月、ハワイの人が星飛雄馬を「あの日本人はミスター・江川かしら」と言ったのを聞いて、伴宙太は「星、お前はクラウンライターライオンズの指名を断った江川と間違えられているぞ」と叫んだ。 原作では飛雄馬が青雲の面接を受け伴宙太と逢った場面(初期講談社コミックスKC2巻、文庫1巻)で、伴宙太の「なぜだまっとる、お前はおし(唖)か」の「おしか」が省かれ、飛雄馬の「だからおしになった」が「だからだまっていた」になっている。また飛雄馬が長屋で伴に「自分を投げろ」と言った場面では「かたわになってもかまわん」が「大けがをしてもかまわん」になっている。 大リーグボールがオズマに打たれた後のオールスター(KC14巻、文庫8巻)で客からの左門への罵声の「百姓」が省かれ、「熊本に帰ってこえたごかついでろ」が「派手にプレーしてみろ」に、伴移籍の後のキャンプで長嶋が言った飛雄馬への助言(KC16巻、文庫10巻)で「めくら蛇におじず」が使われていたが、この諺が省かれ、セリフも大幅に書き換えられた。アニメでのセリフの変更は、アニメ版の項目参照。
※この「スポーツ界など、社会全体」の解説は、「巨人の星」の解説の一部です。
「スポーツ界など、社会全体」を含む「巨人の星」の記事については、「巨人の星」の概要を参照ください。
- スポーツ界など、社会全体のページへのリンク