インパール作戦とは? わかりやすく解説

インパール作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:48 UTC 版)

コヒマ」の記事における「インパール作戦」の解説

1944年第二次世界大戦中に、日本軍によるインパール作戦の一環として南に位置するインパール同時にコヒマにも進撃し実際に佐藤幸徳陸軍中将率い日本軍第31師団コヒマ制圧した。しかし連合軍抵抗頑強であり、その上連合軍強力な反撃インパール方面瓦解し無残な態となり、佐藤中将はあくまでコヒマに留まれという牟田口廉也陸軍中将命令反発し独断ビルマ方面撤退している。このインパール作戦が東南アジア戦線転換点となり、アウンサン率いビルマ軍反乱を呼ぶなどこの方面での日本軍優位失われたコヒマでの白兵戦では双方大きな被害出し日本軍インド平野部に入るための重要な高地制圧できなかった。テニスコート戦い英語版)で知られるコヒマ激戦地「ギャリソン・ヒル」の斜面には現在、これらの戦いで命を落としたイギリス連邦出身者など連合軍兵士大きな墓地がある。

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インパール作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:04 UTC 版)

スバス・チャンドラ・ボース」の記事における「インパール作戦」の解説

その後ボース率いインド国民軍は、インドの軍事方法による解放目指して、1944年1月7日ビルマラングーン本拠地移動させた。ボース同地においてビルマ方面軍司令官河辺正三中将出会った河辺中将は歓迎宴席示されボースインド独立にかける意志と、その後態度見てボース惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と極めて高く評価するようになった河辺中将は日本軍によるインド侵攻のための「インパール作戦」の指揮執ることになるが、「チャンドラ・ボース壮図見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断混濁させたのである」と、この頃アジア太平洋戦線各地イギリス軍アメリカ軍オーストラリア軍はじめとする連合国軍に対して劣勢となって来ていた日本軍にとっては、不要不急作戦しかない作戦実行の背景ボース対す日本軍側の「情」があったとしている。ボース国民軍をインパール作戦に参加させるようたびたび要求し日本側を困惑させた。 わずか1国でイギリス軍とそれを支援するアメリカ軍と戦わざるを得ない日本軍物量不足もあり、6月にはすでに作戦の失敗は明らかであったが、河辺中将は「この作戦には、日印両国運命かかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで牟田口(牟田口廉也第15軍司令官)を押してやろう。そして、チャンドラ・ボース心中するのだ」と考えていた。インパール侵攻失敗により、インド国民軍その後、主にビルマ連合国軍戦った

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インパール作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 15:46 UTC 版)

第33師団 (日本軍)」の記事における「インパール作戦」の解説

1944年昭和19年3月には、師団第15師団第31師団とともにインパール作戦に参加した

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インパール作戦

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佐藤幸徳」の記事における「インパール作戦」の解説

「インパール作戦」も参照 1944年昭和19年)のインパール作戦では、第31師団通称号:烈)の師団長として参加する。このとき、上司第15軍司令官には、前述のように参謀本部時代因縁のある牟田口廉也中将就いていた。 インパール作戦は当初より第15軍司令部内部でも無謀さ指摘されており、佐藤作戦前から第15軍会議にて補給の困難を主張していた。佐藤は、第15軍司令部作戦中の補給量の確約求めた佐藤は、部下師団将校集めて、「諸君大半アラカン山中餓死するだろう」と訓示していた。 作戦始まったが、佐藤予想通り第31師団前線には十分な糧秣弾薬補給されなかった。第15軍司令部からは「これから物資を送るから進撃せよ」などの電報が来るばかりで、佐藤はその対応に激怒していた。それでもなお3月15日チンドウィン川渡り4月6日に左突進隊とされた隷下第58連隊要衝コヒマ占領したものの、佐藤部下損害嫌って攻撃指示を出すことは控えコヒマ後方15km地点から自身前進せずにいた。この時点補給問題強い関心持っていたのは渡河時に兵が携行していた20日分の食料尽きつつあったからである。師団引き連れていた馬匹の内、象はチンドウィン川渡河2日帰り、牛は餌にするべき無く竹の葉芭蕉食わせたために、パトカイ山系踏み込む前に殆どが倒れた。なお、第31師団前面展開していた英軍部隊は第33軍団(コヒマ方面軍団長:M.ストップフォード中将)であり、その隷下にはワーテルロー以来戦歴を誇る英第2師団があったが、その後第7インド歩兵師団加わり攻撃激しさ増していった。 佐藤補給要請に全精力注いでいたが、ついに物資不足を危惧し撤退進言する至った補給軽視した司令部佐藤作戦継続強要したが、師団はすでに武器弾薬食料の不足から著しく苦戦しており、これ以上進撃不可能な状況だった。そこで直接の上ではなく第5飛行師団田副登師団長宛にまで直接補給要請したが、それでも佐藤このままでは全滅不可避判断していた。 そのような中、5月31日コヒマ西方58連隊守備していた5120高地英印第7師団猛攻を受け、陣地にて紛戦態となった。この時玉砕決意した守備隊長白石大佐告別電により佐藤コヒマ放棄主力撤退独自に決断し病兵1500名の後送指示部下宮崎繁三郎少将遅滞戦闘命じた。そして、 「善戦敢闘六十日におよび人間許されたる最大忍耐経てしかも刀折れ尽きたりいずれの日にか再び来たって英霊詫びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文漢字カタカナ) と返電し、6月1日兵力補給集積地とされたウクルルまで退却させた。この際ビルマ方面軍宛に、 「でたらめな命令与え兵団その実行を躊躇したりとて、軍規にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」 「作戦において、各上司統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司猛省を促さんとする決意なり」 「久野村参謀長以下幕僚能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線状況無知なり」 「司令部の最高首脳者の心理状態については、すみやかに医学的断定をくだすべき時機なりと思考す」 などの激しい司令部批判電報送った6月3日師団一斉にコヒマから撤退したが、退却先のウクルルにも弾薬食糧が全く無かったため、佐藤独断でさらにその後方のフミネまで後退した。 これは陸軍刑法42条(抗命罪)に該当し師団長と言う陸軍要職にある者が上官命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗触れ作戦中止後の7月9日師団長更迭された。第15軍隷下第33師団長・柳田元三第15師団長・山正文更迭されており、作戦参加する3師団すべての司令官更迭され異常な事態であったもとより佐藤死刑覚悟しており、軍法会議第15軍司令部作戦指導糾弾するつもりであったという。しかしこの抗命撤退により多く兵士たち生命救われることになった7月10日牟田司令官は「佐藤が食う物がないから戦争出来と言って勝手に退りよった」との補給軽視した訓示行ったが、すでに栄養失調将校たちは長時間に及ぶ訓示に耐えきれず、次々倒れていったという。

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インパール作戦

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宮崎繁三郎」の記事における「インパール作戦」の解説

上海特務機関長を経て第13師団歩兵26旅団長第13師団当時計画されていた重慶侵攻作戦基幹部隊目されていた。南方方面戦況悪化により旅団付属歩兵第58連隊と共に宮崎ビルマ送られ自身第31師団佐藤幸徳師団長歩兵団長補された。 第15軍司令官牟田口廉也中将主導したインパール作戦は補給無視した無謀な作戦であり多く犠牲者出した宮崎指揮下の三個連隊から第58連隊のみを指揮下に置き、これに一個山砲大隊加えた3000人の兵を率いてインパール北方コヒマ攻略を命ぜれた。 ホマリン出発した宮崎支隊は、ミンタミ山系超えてサン・ジャックにおいて英印軍50落下傘旅団攻撃、これを敗走させその装備奪ったサン・ジャック戦い英語版))。ここで半日休息取った後にさらにコヒマ・インパール間のトヘマでインパール街道出て一気北上した英軍コヒマにおいて陣地構築中だったが、宮崎による急進予想上回り、不意を付かれ英印軍コヒマ中心部撤退し三叉路西南の英弁務官公邸のある丘陵地逃げ込んだコヒマ戦い英語版))。第58連隊によるコヒマ占領によって、インパール対す補給線であったディマプール・インパール間のインパール街道遮断された。宮崎はさらに弁務官公邸英軍設けた陣地攻略目したが、英軍抵抗によりこれは果たせなかった(テニスコート戦い英語版))。その後英軍が二個師団をもっておこなったコヒマ奪還作戦に対して宮崎支隊頑強に抵抗したが、第31師団の他部隊から支援受けられ大きな損害被り兵数当初三分の一にまで減少した佐藤師団長抗命による第31師団退却後、宮崎元に軍司令部から「インパール占領までインパール街道持久せよ」との状況無視した命令送られた。宮崎は既に全ての砲を失い600人にまで減少した部隊二分し、「一方英軍抵抗する間にもう一方その後方のインパール街道陣地構築することを繰り返し徐々に街道南下する」との計画をたてた。「街道上で一ヶ月持久できれば世界記録となる」と兵を励ましたが、17日目にカロンにおいてついに英軍戦車により突破され、インパールへの補給線奪い返された。 街道東方山岳地帯において英軍包囲され宮崎支隊に対して、ついに軍司令部から撤退命令下された負傷兵戦場残さないという信念の下、宮崎負傷兵担架担ぎ食料欲しと言われれば自らの食料与えた。他隊の戦死者負傷兵を見つけると、遺体埋葬し負傷兵収容させた。 「量より質、質より和」をモットーとした支隊において、宮崎は常に「攻撃に際して先頭を、退却では最後尾を」を貫き部隊大きな損害を蒙りながら最後まで統制保った

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