ペルーの歴史
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スペイン植民地時代(1542年-1824年)
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スペイン植民地下のペルーには、1542年にペルー副王領[註釈 1]が設立され、行政の中心地はアンデス山脈中のクスコから、太平洋沿岸のリマに移された。リマはスペインの南アメリカ支配の本拠地として栄え、1550年にはサン・マルコス大学が建設された。征服の時代にはエンコミエンダを割り当てられた征服者(エンコメンデーロ)による気ままな支配が行われていたが、アルト・ペルーがスペイン王の植民地としての制度を整えた頃から、エンコメンデーロを排斥するため、国王によって任命された任期5年のコレヒドール(地方行政官)と、コレヒドールによって使役されるインディオのカシーケ(首長)による支配体制が確立された[17]。しかし、コレヒドールの給与は生活を送るには低すぎたために、多くのコレヒドールはレパルティミエント(商品強制分配)を利用してインディオに商品を不当な価格で売買し、私財を蓄えることを常とした[18]。このことはインディオの怨嗟を招くと同時に植民地行政の腐敗の温床となった。植民地時代を通してコレヒドールはレパルティミエントによる搾取のみならず、ミタ制と呼ばれるカシーケを通じたインディオ共同体への賦役、貢納を要請し、特に3世紀の間に800万人の死者を出したポトシ銀山をはじめとする鉱山でのミタは、多くのインディオ共同体に甚大な被害を与えた[18][19]。コレヒドール制やミタ制の導入といった植民地支配のための官僚機構の整備は、1569年から1581年まで着任したペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治によって完成された[20][21][22]。アメリカ大陸の住民の征服と、それに伴う数多の犯罪行為を思想的に正当化するために、キリスト教カトリック教会がスペインの精神的な支柱の役割を果たしたため、1546年にはリマに大司教座が設置され、ドミニコ会、フランシスコ会、メルセー会、イエズス会などの修道会がインディオへのカトリックの布教を大々的に進めた[23][24]。この他にもトレドはインディオを強制集住させてレドゥクシオンと呼ばれる人口村落を各地に築きあげたが、レドゥクシオン政策は早期に失敗し、流浪するインディオが現れるようになった[25]。
ポトシ鉱山は1545年に現ボリビア多民族国の南部に当たる地域に発見されたが、その豊富な銀を採掘するために副王トレドの改革によって定められたミタ制により、多くのインディオがティティカカ湖周辺やクスコから集められ、奴隷労働に従事させられた。インディオはこの鉱山のミタを恐れ、共同体を離脱するなどの手段によってミタを逃れるものも少なくなかった[26][27]。トレドは1572年に水銀アマルガム法を導入して銀生産量を上げ、インディオの過酷な労働によって採掘された南アメリカ原産の銀は、戦争によって逼迫したフェリペ2世期のスペインの財政を大いに助けた[28][29]。ポトシ銀山での強制労働によってどれだけの人口減があったかは定かではないが、一説には3世紀で800万人が命を落としたとも主張され[30]、少なくともインカ帝国時代に1000万人を越えていた人口が、1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になったとのH.F.ドビンズの推計が存在する[31][註釈 2]。ポトシの富は人間を集め、16世紀中に人口16万人を擁する、当時のロンドンよりも大きい西半球最大の都市となった[32]。こうして採掘された銀は一通り副王領を循環して銀を中心とした植民地経済の形成が行われた後に、パナマやカルタヘナ・デ・インディアスを通してスペインに送られ、スペイン国内での産業を産み出すことなく、王室や貴族の間での浪費やカトリック信仰防衛のための対外戦争の戦費のために使われた[33][34]。このようにしてスペインに流出した銀は、スペインからオランダ、イングランド、フランスなどに流出し、ヨーロッパの価格革命を支える原動力となった。更にこの銀はヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)にまで流入し、メキシコ商人が主導したメキシコのアカプルコとフィリピンのマニラを結ぶガレオン貿易に際して、清(中国)の製品を購入してイスパノアメリカにもたらすために決済され、結果的にアジアにまで流出していたのである[35]。
物流の進展に伴って人の移動もまた加速した。農業ではアシエンダ制が発展し、教会や一般スペイン人に土地を奪われたインディオは、農園でも奴隷労働力として酷使された[36]。アフリカからも黒人奴隷が導入され、黒人奴隷は海岸地方(コスタ)の砂糖プランテーションの労働力となった[37]。こうした複雑な要因が積み重なった結果、18世紀までにペルーでも多くのラテンアメリカ諸国と同様にクリオーリョ(現地生まれの白人)が大多数のインディオ、メスティーソ、黒人を支配するピラミッド構造の上に、ペニンスラール(本国から派遣されたスペイン人)の役人が君臨する社会体制が築かれた。そしてこのような植民地支配に対して、インディオやメスティーソや一部のクリオーリョは、インカ王権にアイデンティティを求めて反乱を繰り返した[38]。1730年のコチャバンバでのアレホ・カラタユーの反乱、1739年のオルロでのインカ王の子孫を名乗ったクリオーリョのフアン・ベレス・デ・コルドバの反乱、1742年のアンデス山脈東嶺セルバでのフアン・サントス・アタワルパの反乱などが主なものであり、これらの反乱はいずれも鎮圧されたが、1780年に起こったトゥパク・アマルー2世の大反乱の先駆となった[38]。これらの反乱の背景には、17世紀にインカ皇帝の子孫だったメスティーソのインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガの著書、『インカ皇統記』によって神聖化されたインカ王権のイメージの影響があったとされており、「インカ・ナショナリズム」と名付けられるこの思想潮流は白人をも含む多くの現地エリートを惹きつけていた[39]。
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1717年にペルー副王領からボゴタを主都にパナマ、カラカス、キトを含む地域が、イギリスの攻撃に備えることを目的にヌエバ・グラナダ副王領として分離された[40]。ヌエバ・グラナダ副王領は一旦廃止されたものの、1739年に復活した[40]。ペルーの衰退は、それまで貿易特権により、リマ商人とパナマ地峡を経由してヨーロッパとの貿易を行う必要があったブエノスアイレスやチリ、ベネズエラなどのペルー副王領内の周辺的な地域が、ヨーロッパとの直接交易が可能になった1748年以降相対的に進行して行った[41]。植民地時代のリマでは都市文化が栄えており、特に1761年から1776年まで着任した副王アマトはリマの市街地整備や演劇の振興に尽力した[42]。
1759年に即位したスペイン王カルロス3世は衰退を迎えていたスペイン帝国の復興のために、1776年にボルボン改革を実施し、その一環として植民地の再編を図った。1776年にはポルトガル領ブラジルからラ・プラタ地域(現在のアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイ)を防衛するためにリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領にはアルト・ペルーもが編入された[43]。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は以降リマを介さずに、副王領の主都となったブエノスアイレスから直接ヨーロッパと貿易を行うようになった[44]。その他にも新税の導入や、レパルティミエントの腐敗[45]を一掃するためにコレヒドール制に代わってインテンデンテ制が導入されたが、ペニンスラールを中心に据えた改革はクリオーリョからインディオまで多くの植民地人に大きな不満をもたらした[46]。植民地人がボルボン改革に不満を抱く中、1780年にトゥパク・アマルーの子孫だった運送業者のホセ・ガブリエル・コンドルカンキはトゥパク・アマルー2世を名乗り、インディオやメスティーソを動員してクリオーリョ支配層に対する反抗とスペイン王への忠誠を名目に反乱を起こした[47]。ホセ・ガブリエル・コンドルカンキはミタ制、レパルティミエント、ボルボン改革による新税の廃止などを掲げており、当初反乱は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第に貧困層のインディオを主体とした反乱軍がスペイン王治下の改革から理想化されたインカ帝国の復興に目標を変え、その過程の中で白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失い、トゥパク・アマルー2世は部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された[48]。1781年にはアルト・ペルーでもトゥパク・アマルー2世に呼応したトゥパク・カタリが反乱を起こし、二度に渡ってラパスを包囲したが、白人層やカトリック教会への苛烈な態度によって彼等の支持を得ることができず、カシーケの支持もなかったために同年捕えられて処刑された[49]。これらの反乱は全て失敗におわったものの、スペイン王室によるペルー副王領支配を大きく揺るがせ、後のペルー喪失の遠因となった[50]。
註釈
- ^ 最初期のペルー副王領は現在のペルーのみならず、ポルトガル領ブラジル以外のパナマより南の南アメリカ全体を統括していた[16]。
- ^ ドビンズの推計値は増田、柳田(1999:13)からの孫引きであることを明記しておく。
- ^ 皮肉にも彼の子孫のエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、彼とは異なり20世紀後半のラテンアメリカの革命闘争に従事したのであった。
- ^ 日本とペルーが1873年に国交を結ぶきっかけとなったマリア・ルス号事件は、この過程で発生した事件であった[72]。
- ^ オンセ=onceはスペイン語で11を意味する。
- ^ この面積に関しては20万km²と主張している資料も存在する[124]。
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