ペルーの征服とビルカバンバのインカ政権(1533年-1572年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:09 UTC 版)
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「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 ピサロは旧ワスカル派のマンコ2世をインカ皇帝の位に就けたが、マンコ2世はスペインの傀儡であることを良しとせずにクスコを脱出してインカ人を動員し、街を包囲した。しかし、農繁期が来たために包囲は解かれ、折しも成果をあげることなくチリ遠征から帰還したディエゴ・デ・アルマグロによって、クスコは再征服されたのであった。クスコは1538年にフランシスコ・ピサロの異母弟のエルナンド・ピサロによって攻略され、アルマグロは処刑された。この事件がきっかけとなり、フランシスコ・ピサロはアルマグロ派によって暗殺されたが、新総督のバカ・デ・カストロが派遣され、アルマグロ派のスペイン国王への反逆罪を理由に総督バカがピサロ派についたために、国王を味方に得たピサロ派はアルマグロ派を打ち破り、ペルーの支配権を確立したかに見えた。しかし、国王カルロス1世が1542年にエンコミエンダを一代限りの財産にすることを定めたインディアス新法を制定したがために、財産を奪われることを恐れたピサロ派はゴンサロ・ピサロを擁立して、国王に対する反乱を起こした。反乱は成功したかに思われたが、新総督ガスカはエンコミエンダの保障を取引材料にしてピサロ派を切り崩し、ゴンサロ・ピサロを破った。それまでスペイン人征服者のエンコミエンダはピサロによって与えられたものであったが、この抗争の解決にあたって1549年にエンコミエンダの再配分が王権によってなされたことにより、ペルーにおけるスペイン王権の支配が確立した。 一方、クスコ包囲を解いたマンコ2世はオリャンタイタンボに撤退し、そこに新たなインカ政権を築いたが、マンコ2世はスペイン人との戦いのためにさらに奥地のビルカバンバに撤退した。マンコ2世は1545年に死去し、その後ビルカバンバ政権とスペイン人との間では宥和政策が続いたが、1571年に即位したトゥパク・アマルーは主戦論を採り、当時のペルー副王フランシスコ・デ・トレドも同様だったがために、スペイン人に敗れて捕らえられたトゥパク・アマルーは1572年9月24日にクスコの広場で斬首され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。
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