ペルーへの帰還、そして処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 15:58 UTC 版)
「ディエゴ・デ・アルマグロ」の記事における「ペルーへの帰還、そして処刑」の解説
主に気候条件による水と食物の不足により悲惨な被害を受けたアタカマ砂漠の横断の後、1537年にアルマグロは最終的にペルーのクスコに達した。チリ人についてペルー人が使用するスペイン俗語「roto」(引き裂かれるの意)が最初に言及されたのは、アルマグロの失望した軍が、アタカマ砂漠の大規模で困難な行軍の末に衣服を「引き裂かれ」クスコに徒歩で戻ったこのときからである、と言及した年代記作者もいる。 ペルーに苦渋の帰還をした彼は、クスコの富のうち自分の分け前を要求するつもりであった。その前年に、皇帝マンコ・インカ・ユパンキは容易に王都を取り戻し、聖なる谷でのスペインの影響力を弱めていた。皇帝の助力で兵を徴募することを望んだアルマグロは、スペイン政府を代表してマンコ・インカに対する特赦を申し出た。マンコ・インカはクスコ攻撃の最中に公式にはアルマグロと手を組まなかったが、ピサロの異母弟エルナンド・ピサロの軍隊の大部分はマンコ・インカを追跡しアンデスを進み、アルマグロ派がクスコを占拠することを黙認した。エルナンド・ピサロ軍が戻ったとき、アルマグロの軍は、これを破り、エルナンドとゴンサロのピサロ兄弟を捕虜として連行した。 クスコ占領の後に、アルマグロは兄弟を解放するためピサロによって送られた軍隊に立ち向かった。アロンソ・デ・アルバラード(スペイン語版、英語版)に率いられたピサロ軍は、1537年7月12日にアバンカイの戦い(スペイン語版、英語版)において破られたが、間もなくゴンサロ・ピサロとアルバラードは刑務所から逃げた。この間にアルマグロはパウリュ・トゥパック・ユパンキを傀儡皇帝として擁立している。ピサロとアルマグロのその後の交渉により、アルマグロへのクスコの完全な統治・管理権と引き替えに、エルナンドの解放が決定された。しかしピサロには、アルマグロのためにクスコを諦める意志は決してなかった。ただアルマグロ軍を破るために十分な程度まで自らの軍を強化する時間を稼ぎたかっただけであった。 この間に、アルマグロは病に伏し、ピサロと彼の兄弟は最終的にアルマグロ軍を破る機会を得た。エルナンドの弟ゴンサロ・ピサロに率いられ導かれたピサロ兄弟は1538年4月にクスコ郊外のラス・サリナスの戦い(スペイン語版、英語版)でアルマグロを破り、彼を捕らえた。アルマグロは、エルナンドによって辱しめられ、スペイン王に対する上告の要求を無視された。アルマグロは助命を請うたが、エルナンドは以下のように応じた。 「お前は著名な紳士だ。哀れなまねはするな。俺たちのような男がそれほど死を怖れるとは気になってしょうがない。我々の死などには救いがないと認めるのだな。」 1538年7月8日、アルマグロは死刑を宣告され、監禁中に斬首された。彼の死体は、敗北者としてクスコの大広場にさらされた。忠実な使用人であったマルガリータが、クスコのラ・マーセッド教会の下に彼を埋葬した。
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