タワンティン・スウユの繁栄と滅亡(1438年-1533年)
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「ペルーの歴史」の記事における「タワンティン・スウユの繁栄と滅亡(1438年-1533年)」の解説
詳細は「インカ帝国」を参照 15世紀になりクスコ周辺の南部の山岳地帯が、1438年に即位したケチュア族の王パチャクテクによって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア族によるタワンティン・スウユ(インカ帝国)によってペルー、及び周辺のアンデス地域は統合された。続くトゥパク・インカ・ユパンキの代になると、チムー王国も1476年頃に征服されて、その支配体制に組み込まれた。続くワイナ・カパックの征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だったキトを征服することになる。またワイナ・カパックはマプーチェ族と戦ってチリの現サンティアゴ・デ・チレ周辺までと、アルゼンチン北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。 インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアのアイマラ族の諸王国や、チリ北部から中部まで、キトをはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現コロンビア南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に古代エジプトの諸王国に似ており、クスコのサパ・インカを中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。インカ帝国はそれまでのアンデス文明の集大成であり、文字を持たなかった文明であったものの、キープと呼ばれた縄によって数の管理がなされ、巨石建築には非常に高度な技術が用いられていた。 帝国は16世紀初め頃まで栄えていたが、1492年にジェノヴァ人の航海者クリストーバル・コロンがアメリカ大陸に到達し、パナマ地峡が1501年にスペイン人のロドリーゴ・デ・バスティーダスによって征服されると、パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病が帝国内でも流行し、ワイナ・カパックがこの疫病によって病死した。その後帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派のアタワルパと、クスコ派のワスカルの二人の皇子の間で激しい内戦が繰り広げられた。 内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の最中に、パナマ市から南米大陸の太平洋側を南下して遠征してきたフランシスコ・ピサロ率いるスペイン人が、コスタ北部の旧チムー王国の領域に上陸した。ピサロは偵察後、すぐにスペインに戻って国王カルロス1世に自らをペルー総督に任命させ、インカ帝国を侵略することを決めた。1531年1月に180人の征服者達がパナマを出帆した。 イタリア戦争で少数部隊戦闘の経験を積んでいた征服者達は1532年11月16日にカハマルカの戦いで第13代皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な身代金を取った後に絞首刑にした。スペイン人は1533年11月15日にクスコを征服し、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にスペイン式の都市としてクスコ市とリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となった。征服以後南北アメリカ大陸の住民は、スペイン人によってインディオ(当時のスペイン語で「インド人」の意)と呼ばれるようになった。
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