APRAと軍部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:09 UTC 版)
世界恐慌後、輸出依存型の経済構造が破綻し、労働人口の1/4が失業するほどの経済的打撃を受けたペルーの政局は、急激に不安定化した。1931年の大統領選挙はAPRAのアヤ・デ・ラ・トーレと、レギーアを打倒したサンチェス・セロの一騎討ちとなり、両者共に大衆動員を図ったが、結果的にはセロが勝利することになった。アヤ・デ・ラ・トーレはこの結果を認めず、不正選挙によるものだと主張したため、大統領となったサンチェス・セロはAPRAを弾圧しながら新憲法を作成したが、これを受けてAPRA党員によるサンチェス・セロ暗殺未遂事件が発生し、同時期に政府によるアヤ・デ・ラ・トーレに対する逮捕状が発行された。先手を打ったAPRAは1932年7月に本拠地のトルヒーヨ市で武装蜂起し、軍人約60人を処刑したが、この事件は軍部の深い怒りを招き、軍部はすぐさま7月7日にチャン・チャン遺跡で1,000人のAPRA党員を虐殺する報復に及んだ。この事件以降軍部とAPRAは互いに深い憎悪を抱いて対立するようになった。 サンチェス・セロ大統領は、1932年にペルー人の過激派から始まったレティシア占領運動に乗じてサロモン・ロサーノ条約を否定し、コロンビアからレティシアを奪うためにコロンビア・ペルー戦争を引き起こしたが、コロンビアとの戦争に赴く兵士を閲兵している最中にAPRA党員の青年によってサンチェス・セロは暗殺され、4時間後にペルー議会はオスカル・ベナビデス将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アヤ・デ・ラ・トーレを釈放するなどAPRAとの協調を図ったが、APRAは妥協しなかったため、APRAによるテロリズムはその後も続き、ベナビデスもAPRAとの対決を選んだ。ベナビデスの任期が終わる1936年の選挙でAPRAが支持する左派が勝利しかけると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を三年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。ベナビデス時代には世界恐慌の影響により輸入代替工業化が進み、社会面ではレギーア時代の延長となる道路の建設や既製の道路の舗装が進み、水道の敷設や年金の整備など社会保障も拡充された。 ベナビデスの任期が終わった後、1939年にマヌエル・プラード(マリアーノ・プラードの息子)が大統領に就任した。プラードは連合国側で第二次世界大戦に参戦し、敵性国民となった日系ペルー人は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで大規模な排日暴動が起きていたが、太平洋戦争が始まると1,800人の日本人がアメリカ合衆国の強制収容所に連行されたのである。ペルーは直接第二次世界大戦に兵を送らなかったが、1941年7月5日からエクアドルと国境紛争を行い、エクアドル軍に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に係争地のうちの25万km²を翌1942年のリオデジャネイロ議定書で獲得したが、このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。 1945年の選挙ではベナビデスとAPRAの間で密約が結ばれ、APRAは合法化と引き換えにベナビデスの推すホセ・ルイス・ブスタマンテに投票することを約束した。これによりブスタマンテ政権が誕生し、合法化されたAPRAは議会で単独過半数を獲得した。ブスタマンテ期にはインフレーションが進行していたため、歳入を増やすためにスタンダード・オイルの子会社の International Petroleum Company (IPC) に石油の採掘権が付与された。ベナビデスが死去すると、徐々にAPRAの急進派が武装闘争を再び掲げ、1948年10月3日のAPRA党急進派と海軍の一部によるクーデターが起きた。このクーデターは鎮圧され、APRAは再び非合法化されて10月29日に軍事クーデターによってブスタマンテ政権は崩壊し、マヌエル・オドリーア将軍が政権に就いた。オドリーアはアルゼンチンのフアン・ペロンのような、貧困層の支持を受けて労働政策や福祉政策を実現するという政治スタイルを採ったが、実際には公共事業などはほとんど成果を出さず、経済が低迷する中、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙に際してAPRAは合法化を条件にプラードを支持し、以降APRAはブルジョワジーと同盟してペルーの寡頭支配層の側に回った。APRAの保守政党化の影響は大きく、保守支配層との協調を嫌った党内左派は分離し、フェルナンド・ベラウンデ・テリーの人民行動党、キリスト教民主党、革新的社会運動など、新たな左派政党が分立した。マヌエル・プラード政権下ではペドロ・ベルトラン首相によって本格的な輸入代替工業化政策が進められたが、この措置は多国籍企業のペルー経済への進出を顕著なものとした。またこの時期にシエラの伝統的な農村共同体が解体される中で、シエラではラ・コンベシオンを中心にウーゴ・ブランコらによる新たな農民運動が組織され、コスタにはシエラからの人口流入が続いた。このような情勢の中で、プラードは経済運営に余り良いところのないまま、1962年の選挙を迎える事になった。 1962年には、同年行われた大統領選挙において発覚したAPRAによる選挙不正に抗議するために軍事クーデターが勃発し、任期終了の直前にプラード大統領は追放された。ペレス・ゴドイ将軍を首班としたクーデター政権は、当時高揚していたウーゴ・ブランコの指導する農民運動に対応するための農地改革法を施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。 選挙監視内閣だった軍事政権は1963年の選挙が終わり、軍部及びキリスト教民主党と結んだ人民行動党のベラウンデ・テリーが、アヤ・デ・ラ・トーレとオドリーアに勝利すると解散した。穏健的改良主義者を自認していたベラウンデは軍部や「進歩のための同盟」の意向を反映して1964年に農地改革法案を通過させたものの、ベラウンデの農地改革は抜本的な社会改革から程遠いものとなり、外資主導の工業開発政策も1967年頃には失敗して破綻を迎えつつあった。さらに、ベラウンデ政権下ではキューバ革命の影響を受けたルイス・デ・ラ・プエンテの左翼革命運動(MIR)のようなゲリラが蜂起し、8,000人の農民の死亡を伴った軍による鎮圧作戦は、軍内部の将校に文民政権への深い失望をもたらした。こうして既にベラウンデは農村問題で躓いていたが、ペルー政府が1億4,400万ドルに及ぶIPCの債務を帳消しにすることが認められたタララ協定で、原油の売買価格の記載された協定文書のページが「紛失」してしまったことが発覚すると、この「失われた11ページ事件」は大スキャンダルとなって国民の強い不満を引き起こした。
※この「APRAと軍部」の解説は、「ペルーの歴史」の解説の一部です。
「APRAと軍部」を含む「ペルーの歴史」の記事については、「ペルーの歴史」の概要を参照ください。
- APRAと軍部のページへのリンク