敗戦後の再建と貴族共和制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:09 UTC 版)
「ペルーの歴史」の記事における「敗戦後の再建と貴族共和制」の解説
太平洋戦争敗戦後、イグレシアス将軍は大統領を続けたが、1886年にタラパカの英雄ことアンドレス・カセレス大佐が政権を握った。カセレス政権はカウディーリョの挑戦と5,000万ポンドに上った対外債務の処理を対応したが、カセレスは強権政治と、1887年に締結されたグレイス条約によって、ペルーの持つ権益をほぼ全てイギリスのペルー会社に売却し、この危機に対処した。国家の収入源のほぼ全てがイギリスに売り渡されたこの条約は屈辱的なものではあったが、ペルー経済は底を打った後に再び回復の軌道に乗った。また、敗戦をきっかけに、マヌエル・ゴンサーレス・プラーダのようにそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディオの文化に、ペルー性を求める言説が生まれたことも注目に値する。カセレスは大統領を辞任した後も部下のモラレス・ベルムーデスを大統領に据え、政治の実権を握っていたが、1895年にクーデターで文民のニコラス・デ・ピエロラが政権を握ると、歴史家によって「貴族主義的共和国」と呼ばれる時代が幕を開けた。ピエロラ時代からそれまでの自由放任経済体制に代わり開発省による国家主導の開発政策が実施されてペルーの工業化が始まり、地方自治の拡大、公正な選挙の実施、フランス流の軍制改革などがなされた。カセレスとピエロラの時代には破産寸前だったペルーを生き返すために、外国資本に頼った経済開発が進められ、セロ・デ・パスコ銅山の銅にはアメリカ合衆国資本、油田にはイギリス資本、コスタの砂糖や綿花のプランテーションには移民資本が投下された。砂糖は新たなペルーの外貨収入源となり、1878年には砂糖輸出額が約1,000万ドルに達し、ペルーは20世紀初頭までキューバと並んで世界有数の砂糖輸出国となった。 ピエロラが残した文民政治はその後も続き、1904年の選挙では民生党からホセ・パルドが大統領に就任したが、他方でこの頃から外資主導の経済開発の中に労働運動が頭をもたげた。1908年には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってパルド政権の蔵相だったアウグスト・レギーアが民生党から政権に就き、レギーアはこれから20年に渡り権力を掌握することになる。1912年に成立した民主党のギジェルモ・ビイングルスト政権は、8時間労働法などの労働者や農民の権利を保護するための法案を複数通過させたが、そのような姿勢が議会と対立したために、1914年2月4日に議会の要請によってオスカル・ベナビデス参謀総長がクーデターを起こしてビイングルストを追放した。臨時大統領に就任したベナビデスは第一次世界大戦に中立を表明した後、選挙を経て1915年8月にホセ・パルドが大統領に就任した。パルド政権期にはロシア革命の影響から他のラテンアメリカ諸国と同様にアナルコ・サンディカリスム系列の労働運動が激化し、アルゼンチンのコルドバ大学の改革運動に影響を受けた学生運動も高揚した。 文化面では、思想的にオーギュスト・コントの実証主義と、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーのアリエル主義の影響が強かった。科学と資本主義を擁護する実証主義の流れは太平洋戦争敗戦後の1880年代に新実証主義となり、新実証主義はペルーに社会学を導入したカルロス・ソリン、移民によるペルーの人種の白人化を主張したハビエル・プラード、資本主義を批判したホアキン・カペーロ、さらには後のインディヘニスモの先駆となる最も異端的なマヌエル・ゴンサレス・プラダなど、サン・マルコス大学の知識人によって発達させられ、現実政治の中ではピエロラ政権のイデオロギーともなった。一方、物質主義と功利主義を批判し、精神主義[要曖昧さ回避]を主張したアリエル主義は、インカとスペインの混血性にペルーの美徳を見出すメスティサヘを提唱したホセ・デ・ラ・リバ・アグエロや、ビクトル・アンドレス・ベラウンデ、ガルシア・カルデロンといった人物を生み出し、サン・マルコス大学に並ぶ最高学府であるペルー・カトリック大学(1917)は、アリエル主義者のカルロス・アレナス・イ・ロアイサによって設立されたものであった。
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