敗戦後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 08:57 UTC 版)
奥羽越列藩同盟という仙台藩中心の組織を早期に見切り、途中から官軍に参加した久保田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、盛岡藩は白石への減転封を課せられるなど、後世にわたって長く苦難の道を歩んだ。 なお楢山家は、佐渡が戊辰戦争により切腹するまで宮古市川井の楢山家老役・澤田長左衛門宅にて謹慎し、佐渡切腹後も川井に居住していた。明治22年(1889年)、政府から家名再興の恩典を賜り盛岡へ戻り、これにより南部家によって桜山社内にて大祭が行われた。 大正6年(1917年)9月8日、盛岡・報恩寺において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。佐渡と同様に盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁・原敬は祭主として列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、盛岡藩とそれに関わる賊軍・朝敵の汚名に対し抗議の意を示した。
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