敗戦後の復興と飛躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:18 UTC 版)
「フォルクスワーゲン・タイプ1」の記事における「敗戦後の復興と飛躍」の解説
1945年、ドイツは戦争に敗れ、KdF-Wagen工場跡は空爆で大きな被害を受けていた。この工場を管理する役目を与えられたイギリス軍将校アイヴァン・ハーストは、「ドイツ側が(自ずから)爆破したように見えた」と証言している。 資材のない戦後の混乱期であり、連合国のドイツ重工業を破壊・解体することによる無力化を志向した占領政策も重なって、ドイツ国内のさまざまな工場や資材は、ドイツを占領下においたイギリス、アメリカ、フランス、ソ連の4国に収奪され、自国に持ち帰られてしまうような状況であった。しかし、当時としては極めて前衛的な設計を備えたフォルクスワーゲンは、最先端すぎるが故にその標的から免れた。 占領国からの収奪行為に最も積極的であったソビエト連邦は、最新式小型乗用車プラントの収奪対象として、在来型乗用車の延長上にある中庸な設計のオペル・カデットを選択し(それはソ連本国で国産化されて「モスクヴィッチ」となった)、イギリスやアメリカ合衆国の自動車メーカーも概して保守的設計に偏りがちなゆえに、フォルクスワーゲンの先進性を理解しなかった。イギリスのメーカー視察団も、フォード・モーターの新たな盟主となったヘンリー・フォード2世も、フォルクスワーゲンを検分こそしたが、特異な設計の自動車と見なして「無価値」と判断し、設計・設備の収奪はおろか、何らそこから学ぼうともしなかった。このため1949年までには、フォルクスワーゲン工場が連合国側の接収対象から免れることが確定した。 対して、アイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、手段を尽くして工場を修復させ、自動車生産を再開させることをもくろんだ。こうして彼は、残っていたドイツ人労働者らの力でその名の通りの「国民車・フォルクスワーゲン」を、はじめて誕生させたのだった。フォルクスワーゲン車の本格的な量産はこの時から始まったと言える。1945年中に早くも1,785台を生産している。 「タイプ1」などの型式が定められたのも1945年に英国占領下となってからのことである。それ以前はフォルクスワーゲン社としての型式はなく、ポルシェ社による開発番号で呼ばれることが多かった。 ハーストは英国軍に対し、ジープに代わる耐候性の高いスタッフカーとしてフォルクスワーゲンを用いることを提案し、1946年には1万台のフォルクスワーゲン・タイプ1が生産された。 1947年には、オランダ向けを第一陣として国外輸出が始まった。最大の市場となったアメリカへの進出は1949年である。またその後、ドイツ系移民が多くフォルクスワーゲンが一定のシェアを持っていたブラジルの現地法人である「フォルクスワーゲン・ド・ブラジル」やメキシコでの生産も開始された。 以後のフォルクスワーゲン・タイプ1の歴史は、破竹の勢いと言うべきものであった。とにかく頑丈で悪路や厳しい気候でも酷使に耐え、材質・工作が優秀で整備性も良く、大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を念頭に置いた、100 km/h以上で高速道路を連続巡航できる大衆車、というポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトは、戦後の先進各国におけるハイウェイ時代到来に、見事に適応したのである。アウトバーン整備推進とフォルクスワーゲン開発は、常に独裁者としての悪名が先行するヒトラーの施策の中では、戦後これを実効的に継承発展できたことで、後年まで成功と見なされる数少ない事績の代表例となった。 輸出市場でも、その性能とともに、進出した各国で緻密に構築された質の高いディーラーサービス網が、ユーザーからの信頼をより一層高めた。1955年には累計生産100万台に到達、さらに工場の増設・新設を繰り返して、1964年には累計生産1,000万台に到達した。 さらに年々改良され、エンジンや電装の強化(1968年以降6 V電装を12 Vへ変更)、細部の形態変更などが繰り返されている。排気量は当初の1.0 Lがすぐ1.1 Lへ拡大、のち1954年からは1.2 Lとなるが、1960年代に入ると輸出モデルを中心に1.3 L、1.5 Lへの移行が進み、モデル後期には1.6 L型も出現している。 アメリカではセカンドカーとしての需要が高かったが、特に合理性を重んじる知的階層からは「大型車へのアンチテーゼ」として愛用され、一時はデトロイトの大型車と正反対な、反体制の象徴の一つとしても扱われた。理知的なユーモアに溢れる優れた広告戦略も好評を博したが、その広告代理店がドイツ系ユダヤ人のウィリアム・バーンバック率いるDDB(ドイル・ディーン・バーンバック)であったことは、フォルクスワーゲンの生い立ちからすれば歴史の皮肉とも言える。 日本では老舗輸入車ディーラーヤナセが1952年から取り扱いを開始。「寒冷時に急な往診があっても(暖機運転必須であった当時の水冷エンジン車と違い)速やかにコールドスタートできる」「頑丈なドイツ製品」という実用性を伴ったキャラクターは開業医の間で好まれ、医師自らハンドルを握る「ドクターズカー」として使われる例が多かった。このため、昭和30年代には「お医者さんの車」として一般大衆にも知られるようになった。フォルクスワーゲンは、戦後のヤナセにおいて1960年代以降アメリカ車に代わり、長く主力商品の一つとなった。
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