1991年9月以前とは? わかりやすく解説

1991年9月以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:51 UTC 版)

アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91」の記事における「1991年9月以前」の解説

1969年初め来日して日本関心持ったクリストとジャンヌ=クロードは、その頃招待されていた1970年第10回日本国際美術展("東京ビエンナーレ"とも言う)と、オランダ都市アルンヘムにあるソンスビーク公園オランダ語版)(Park Sonsbeek)での大規模な展覧会二つにおいて、『包まれ遊歩道東京上野公園オランダアルンヘム、ソンスビーク公園のための2つ部分からなるプロジェクトWrapped Walk Ways, Two-Part Project, Ueno Park, Tokyo,Japan-Sonsbeek Park, Arnherm, Holland.)』という上野公園とソンスビーク公園2つの場所を使ったアートプロジェクト計画した。が、この時は日本での許可取れず断念していた。後の、この失敗についてどう思うか?、との写真家安齊重男問い対しクリストは「日本社会構造を知るために時間少なかった」と述べている。この1970年失敗以降頻繁に日本訪れようになったクリストとジャンヌ=クロードは、日本での人脈強くし、日本社会への理解深め日本西洋2つの場所を使ったプロジェクト関心持ち続けた。そして『包まれ遊歩道』の15年後に満を持してアンブレラ』に取りかかった。それは1984年クリスマスに『アンブレラ』の最初ドローイング描かれた時から始まった最初作業としてクリストとジャンヌ=クロードは、"人々実際に生活を営んでいる場所"、"傘を様々な高さや角度から見られる渓谷部"、"容易に行ける場所"、"有名な記念碑建造物が無い一般的な場所"を条件に傘を置く場所の選定取りかかった日本側の選定1985年から1986年の間で計3回行われた1回目1985年4月22日行われた。この時は日本側のプロジェクト・ディレクターを務めたニューヨーク・タイムズ東京支局長だったヘンリー・スコット・ストークスと共に九州を約300キロメートル回った2回目1986年4月12日から21日にかけて淡路島奈良県琵琶湖丹後半島、そして茨城県など約5700キロメートル回った茨城県巡ったのは元読売新聞文化部次長美術ジャーナリスト海藤日出男の勧めからであった。この時の茨城県への旅で、開催地となる場所が見いだされた。3回目1986年10月21日から10月29日にかけて行われ甲府奈良郡山といった地域見たが、ほぼ開催地に決めていた前回見た茨城県の場所を細かく調査する方に多く時間費やしたもう一つ候補地奈良県桜井市回ったが、この3回目の旅で茨城県北部開催地に決まったアメリカ側開催探索1986年7月11日から7月20日にかけて行われた。この時の旅にはアメリカ側のプロジェクト・ディレクターのトム・ゴールデン(Tom Golden 又は トーマス・M.R.・ゴールデン Thomas M.R. Golden)も加わりサンディエゴ周辺ロサンゼルス北周辺を約5000キロメートル巡った結果この1回の旅でカーン郡ロサンゼルス郡開催地が決定した1987年7月10日クリストとジャンヌ=クロード茨城県庁当時水戸市三の丸所在)で竹内藤男茨城県知事面会しプロジェクトについて説明したこの面会は竹内親交があった政治評論家早坂茂三取り計らいもあって実現している。翌11日武藤常陸太田市長、立花留治日立市長、井坂一里村長面会した竹内面会当初から協力的な姿勢見せ面会の数週間後には県庁内でプロジェクトへの担当者配置するなど、茨城県側の受入態勢整えていった。 『アンブレラに関して広報は、遅くとも1985年9月下旬までには、現在計画中のプロジェクトとして、日本アメリカ西部において巨大な傘を同時に多数設置する、との大まかな概要アーティスト側から発表されている。1987年7月18日軽井沢高輪美術館で『クリスト展』が始まる。この展覧会で『アンブレラ』のドローイング計画段階資料展示された。また展覧会初日には開催場所等主要な内容定まったアンブレラ』について最初記者発表が行われた。この時の発表時では名称は『アンブレラ日本アメリカ西部のジョイント・プロジェクト(The Umbrellas, Projiect for Japan and Western U.S.A)』であった21日には日本外国特派員協会で『アンブレラ』の世界発表が行われた。アメリカ側では9月9日サクラメント記者会見が行われている。外国特派員協会発表時には名称は『アンブレラ、日本とアメリカ合衆国のためのジョイント・プロジェクトThe Umbrellas, Joint Projiect for Japan and U.S.Aとなっており、以後1991年実現近くまでこの名称で通された。また、計画当初開催予定時期1990年10月とされていた。 カリフォルニア側では、トム・ゴールデンがプロジェクト許諾を得るために1987年7月下旬ら行当局議員地主接触始めている。クリストとジャンヌ=クロード1976年カリフォルニアにおいて、白いナイロン製の布をソノマ郡マリン郡に39.4キロメートルわたって張った『ランニング・フェンス(Running Fence)』という作品成功させた実績があったこともあり、行政議会は『アンブレラ』に対し好意的な反応示した。そして、1987年9月9日サクラメントでの記者会見後にカリフォルニア州議会作品の舞台に再びカリフォルニア選んだことに感謝する"決議文Resolution)"を彼らに渡しており、その後アメリカ側での行政関係の許認可スムーズに進んだ。ただ世間では全面的に支持された訳では無く例えカリフォルニア新聞ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー(英語版)(Los Angeles Herald Examiner)は1987年8月16日付け社説において、傘を置こうとする場所の”眼にするだけで新鮮な空気吸い込んだような気分にさせる環境を壊すものだ、として大規模なプロジェクト開催異議唱えている。 日本側の傘を置く場所の個人地権者から同意を得る作業1987年10月から始まった日本側の地権者多く農家で、その数は450者を超えていた。クリストとジャンヌ=クロード住民説明会通して説明をすると共に可能な限り農家個人の元を訪ね一対一説明をして回った。この時の説明作業についてクリストとジャンヌ=クロードは「茨城地権者同意を得るために6000杯のお茶飲んだのです」と、やや誇張した表現ではあるがその膨大さを話している。最終的に、この『アンブレラ』で傘の設置同意しなかった茨城県側の地権者は1名のみであったまた、茨城県によって『アンブレラ』で設置する傘が一時的に設置される仮設建築物と見なされたことで、建築基準法道路交通法河川法等の法的な問題ハードル低くなった。 『アンブレラ』で使う傘の製作は強度面・デザイン面から検討進められ1989年末までに基本設計終了した。傘の支柱骨組製造組み立ては、アルミニウム加工を得意とする開催地に近いベーカーズフィールド のレイン・フォー・レント(Rain for Rent)が、布の裁断縫製ヨットセイル世界的なメーカーであるノースセール(英語版)(North Sails)が行った。ノースセールが選ばれたのはヨットで培われた技術で、風を受けた傘の膨らみとたわみを美しく表現してくれることを期待してのものであった実際に傘を置く場所を決め作業アメリカ側1988年9月に約1ヶ月かけて、日本側では同年10月13日からほぼ12日間かけて行われたクリストとジャンヌ=クロード地図測量道具携え開催場所を巡り決めた場所に打ち込んでいった。日本側ではアーティストの他、行政職員、測量士通訳の他、地元事情精通した住民がこの作業帯同した。この1988年作業日米の傘設置箇所が一旦は決められたのだが、その後茨城県側でバイパス造られたり、茅葺き家が現代住宅建て替えられていたりと景観変貌しており、クリストとジャンヌ=クロードはプロジェクトスケジュールのギリギリまで位置変更調整に拘った。 1990年にはプロトタイプの傘を使った風洞実験や、現地実際に試作品立ててカラーテストなどが行われ、8月から実際に展示する傘の製造開始される。また開催時期も、遅くともこの年5月には当初より1年遅れの1991年10月になっている1990年11月日本側の地権者向けて傘の台座を置くための説明会開催される。傘を設置するための台座設置田植えが始まる前に行わなければスケジュール的に間に合わないことが判明した為、その理解を求めるのが目的であった日本側の地権者には当初の傘設置対す契約時には、傘1本につき1万円、ただし10本を超える場合には10万円の賃貸料支払うとされていた。が、今回田植え前に台座設置することで稲の作付け出来なくなる部分が出ることから、新たに台座1つにつき5千円の"迷惑料"を支払うこと等をクリストとジャンヌ=クロード提示し理解求めた。その甲斐あって12月25日から日本側で台座設置作業始まったアメリカ側台座設置作業1991年1月15日から始まった会期については、まず1991年4月中に10月8日から28日に行うことが決定されその後1日延長して10月8日から29日に行うことが、7月前半までに正式決定した。 1991年7月9日日本展示する傘を載せたコンテナ船第一便がロングビーチ港を出港する以後、傘は数回分けて日立港運ばれた。 そしてクリスト1984年着想から1990年7、8月までの間に300点の『アンブレラに関するドローイングコラージュ制作し、更に開催直前までドローイング等を制作し続けている。ドローイング等に描かれた傘の姿は制作時期が下るにつれ明確になって行きクリストが描くことによってプロジェクトイメージ練り上げていったことが分かる。これらドローイング等はアーティスト描いている構想地権者行政機関技術者等に伝えるのにも役立った他、それ自体優れた美術作品として美術市場流れるもので、クリストとジャンヌ=クロードプロジェクト資金源となっている。 以上のような準備進行するうちに、計画当初では800ドル概算されていた『アンブレラ』の費用大きく膨れあがり、最終的に2600ドルとなった

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