試合の評価
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「箕島対星稜延長18回」の記事における「試合の評価」の解説
冒頭で記したとおり、この試合は高校野球史上最高の試合とされる。その理由としては以下のような事が挙げられる。延長戦に入り箕島が失点した回の裏(12回、16回)、ともに二死無走者という土壇場から本塁打により同点とした。 引き分け寸前の延長18回にサヨナラゲームで決着がついた(この試合以外の延長18回は全て引き分け再試合が適用されている)。仮に、延長18回引き分け・再試合となった場合、この翌日の第1試合・8時半開始に組み込むことが場内にアナウンスされていた。 12回裏は、最後の打者が打席に向かう前に監督に対して「ホームラン、狙っていいですか?ホームラン、狙ってきます!」と発言した後に本塁打を放っている。 16回裏二死後に打席に入った打者は、一旦は完全に打ち取られた打球を放ってしまい試合終了かと思われたときに、星稜の一塁手がつまずき転倒したため命拾いをし、その直後に飛び出した自身初の本塁打であった(それまでこの打者は練習試合も含め、本塁打を打った経験がなかった)。 星稜の一塁手転倒の原因となった人工芝はこの年から敷設されたものであった。 星稜も12回表の攻撃でスクイズを失敗した三塁手が、14回裏一死一・三塁のサヨナラのピンチに守備で借りを返す隠し球を成功させている。 作詞家で作家の阿久悠はこの試合に感銘を受け、「最高試合」という詩をスポーツ紙に投稿した。同じく作家の山際淳司は、「八月のカクテル光線」という短篇(『スローカーブを、もう一球』に収録)を書き上げている。他にも、『一生分の夏 いつも胸に甲子園があった』(作家・山岡淳一郎の短編「黄金のスコアブック」を収録)、松下茂典(星稜高校出身)の『神様が創った試合―山下・星稜VS尾藤・箕島延長18回の真実』、朝日新聞社『奇跡の甲子園』(『審判は見た、「奇跡の試合」。受け継がれる選手への思いやり。』を収録)など、この試合に関する書籍がある。 両校は1994年11月26日和歌山県営紀三井寺野球場で「再試合」と銘打って交流戦を始めた。その後10年ごとに再試合が行われ、2004年11月13日には石川県立野球場で開催された。結果は18対11で星稜が勝ち、対戦成績を1勝1敗とした。 2004年11月13日の試合では病気療養中の尾藤監督、当時プロ野球コーチであった嶋田(箕島)と音(星稜)が欠席した。当時甲子園で両校のプラカードを持っていた女性2人も参加した。当時星稜の一塁手加藤は延長16回裏の人工芝に躓いた(つまづいた)シーンを再現すべく手作りの人工芝型のマットを持参して一塁側のフェアグランドとファウルグランドの間で自身が躓いたと思われる位置に置き、関係者の笑いを誘った。 2007年11月18日には、箕島高校創立100周年記念事業の一環として、現役部員同士による箕島-星稜戦が、マツゲン有田球場で行われ、19対6で星稜高校が勝利した。 再々々試合を阪神甲子園球場で行おうという声も出ていた中、2010年9月23日に「甲子園歴史館開館記念大会」として、実に31年ぶりに甲子園での再戦が実現し、雨天の中熱戦が繰り広げられた。試合は星稜が17対13で勝った。車いすで参加した尾藤監督は「ベンチから見た甲子園は、故郷の光景でした」と涙を浮かべた。 しかし尾藤監督は翌2011年3月6日、膀胱癌により68歳で病死。3日後の3月9日に営まれた葬儀では、星稜高校・山下智茂前監督が参列し男泣きしながら弔辞を読み、最後は山下前監督らの手によって尾藤の棺を運んでいた。 この試合に星稜の控え選手でベンチ入りし、途中出場を果たした高桑充裕は、後に根上町(現・能美市)の教育委員会職員・中学校教諭の地方公務員となり、教員兼野球部監督として、後に母校の後輩となる松井秀喜に対して、基礎から教え、厳しく鍛え上げ、松井に対し大リーガーに成長する基礎を植え付けた。なお、高桑は現在は人事異動で教職員ではなくなったものの、能美市職員として引き続き勤務している。その松井が国民栄誉賞を受賞した2013年の第95回全国高等学校野球選手権大会に、箕島と星稜がともに出場を果たした。箕島は当時監督であった尾藤公の長男・強が監督を務め、対する星稜は、ファウルフライを追い人工芝に足を取られて転倒した加藤の長男である峻平が背番号10でベンチ入りした。多くのファンが「34年ぶりの再戦」を期待したが、両校ともに初戦敗退を喫した。なお加藤は代打で途中出場しセンター前ヒットを放った後の守備で、かつて父が守ったファーストの守備位置に付いた。 箕島は宮崎国体でも優勝候補に挙がっていたが、接近してきた台風の影響で競技が中止となり、春夏甲子園制覇と国体制覇の3冠達成が潰えた。後にこの偉業は1998年に松坂大輔らを擁する横浜高等学校が達成する。2010年に興南高校も3冠達成の期待が寄せられていたが、天候不良で大会が中断してしまい、3冠達成にならなかったが、日本高野連は10月3日付で、天候不良で中止となった国体に出場していた箕島も優勝扱いとする見解を発表したため、箕島が史上初の3冠達成となった。 箕島は、この1979年の春夏連覇後に100人もの新入部員を迎えた。これに驚いた尾藤監督は、大阪府の北陽高校野球部の当時監督だった松岡英孝に練習方法を尋ねた。その年の第62回全国高等学校野球選手権大会にも出場。ベスト8まで進出するも愛甲猛擁する横浜高校に敗退した。 16回裏に本塁打を放った森川は、その試合後本塁打を打つことを狙い過ぎて打撃フォームを崩し、最終的に打順が8番まで下がった。箕島高校卒業後も復調することはなかった。 NHKが、1979年の甲子園の後の箕島、星稜ナインを題材にしたドキュメンタリー番組を制作した。 『にんげんドキュメント』 - 「球児たちの延長戦 25年目の星稜対箕島」(2004年12月10日放送) 『NHKアーカイブス』(2009年8月1日放送) - 番組では当時の試合映像と、上記2004年放送の番組を再放送し、新たな映像として試合から30年後の両校ナインの姿を紹介した。 全国高等学校野球選手権大会のテレビ放送では、夏の大会の名勝負名場面として、試合と試合の間にこの試合が度々紹介されている。 この試合の前後年には、昭和33年魚津対徳島商延長18回引き分け再試合、昭和48年江川卓雨中押し出しサヨナラ四球、平成4年明徳義塾高校が対星稜高校戦における松井秀喜5打席連続敬遠など、8月16日に行われた球史に残る試合を『8・16現象』と言われている。
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試合の評価
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「第78回全国高等学校野球選手権大会決勝」の記事における「試合の評価」の解説
この伝統校同士の激闘は、高校野球の歴史に残る「平成の名勝負」と呼ばれた。特に矢野の返球は「奇跡のバックホーム」と呼ばれ、球史に残る名場面として語り継がれている。負けた田中監督も「高校生であんな返球は見たことがない」と驚嘆するほどだった。 28年前、延長18回を戦った松山商の元投手で朝日新聞記者としてこの試合を取材中だった井上明も、このバックホームには身震いしたと語った。当時中日ドラゴンズの中軸打者だったアロンゾ・パウエルは、「今まで見た中で最高のプレー」と語っている。ただし、矢野と同じ右翼手である福留孝介はこのバックホームについて暴投に過ぎないと分析している。 矢野のバックホームが大きく取り上げられる傾向にあるが、9回裏二死からの1年生・澤村による同点ホームランや、犠牲フライ直前のライトの矢野への交代、そして11回表は、矢野の打球が澤村の前に飛ぶという奇跡の応酬であったことから、その流れも含めて試合自体が「奇跡」とも言える内容であった。 熊本工の四番だった西本は後に、九回裏にホームランを打たれた新田を今井がまだ負けていないと抱き起こしたシーンと、延長十回裏に本塁死して倒れ込んだ星子を傍にいた西本を含めだれも手を貸そうとしなかったシーンを比べ、これが松山商と熊本工の違いだったと反省している。 『週刊甲子園の夏』(朝日新聞出版)の読者アンケートで選ばれた「読者が選ぶ夢のナイン」にて 松井秀喜らプロに進んだ名だたる選手に混じり、矢野勝嗣は外野手で選ばれている(プロ未経験では他に小沢章一(早実)、藤井進(宇部商)が選ばれた)。 2015年、造幣局は全国高等学校野球選手権大会100年周年を記念して、「全国高等学校野球選手権大会100周年貨幣セット」の通信販売を行ったが、ケースには年表などとともに名場面の一つとして「奇跡のバックホーム」の写真が掲載されている。 スポーツニッポンの公式サイト「スポニチアネックス」で2015年に募集された「私が選ぶ甲子園名勝負!」では、総数2993票中129票を獲得し、第6位となった。『Sports Graphic Number』で2015年に実施されたアンケート「夏の甲子園 記憶に残る名勝負ベスト100」では第5位にランクインした。
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