試合の詳細
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桂の初試合は大会2日目の1952年3月7日、相手はアービング・クレイン(英語版)だった。クレインは参加者一の長身だったので、小柄な桂とは対照的だった。サンフランシスコ・エグザミナーの記者カーリー・グリーブは「ゴールドサテンのガウンを纏った小柄でかわいらしい彼女は、人形のようだった」と語っている。クレインはストレートプール(英語版)の名手であり、6つの世界タイトルを含む数々の大会で優勝している。試合は接戦だったが、57イニングで50対42とクレインが勝った。3月10日、桂は58イニングで50対42でハーブ・ハードに勝った。この日、最初は負けていたのだが5イニング目に15ポイントを取って逆転した。3月11日、桂はメキシコ代表のカマーチョに50対35で敗れたが、翌12日には6点・5点・4点の連続得点を決め、プロキータに63イニングで50対43と逆転勝ちしている。観客からは「見事(brilliant)」「驚きだ(sensational)」などの声が挙がった。 3月14日はそれまで無敗のホッペとの対戦だった。36イニングを戦い、50対31で敗れた。ホッペは人気のプレーヤーだったが、500人以上の観客は明らかに桂びいきだった翌14日は、優勝候補ホッペのライバルと目されていた桂の師匠の松山だった。スコアは51イニングで50対48と、辛くも松山の勝利だった。21イニング目まで松山は29対21とリードしていた。桂はその後33イニング目に43対42と逆転し、さらに46イニング目に松山が3つのランを出して再逆転した。 18日、桂は58イニングでアーサー・ルビンを50対28で破った。20日、ジェイ・ボーズマンに52イニングで50対18で敗れた。21日が桂の最終日で、レイ・キルゴアを61イニングで50対46で敗った。ジャイアントキラーの渾名を持つキルゴアは、松山同様にホッペに引導を渡すことが期待されていた選手であり、この試合はトーナメントで最大の話題となった。桂は優勝候補ホッペに黒星をつけたプロキータ、キルギアを共に破ったことになる。その晩、キルギアとの試合は会場のオーナーコクランの解説で、KRON-TV(英語版)で特集された。大会は翌22日が最終日で、ホッペが前年のチャンピオンの座を守った。桂は7位だった。 大会後、3位のジェイ・ボーズマンは「我々は女性がビリヤードの世界大会に出場し、勝利を収めることなど考えてもいなかった。ミス・カツラは私が世界選手権で見た最高級のプレーヤーだ」と語り、自身が世界大会で5回優勝している大会主催者のコクランは「あと2,3年もすれば桂の優勝もありえる。マサ子は女性に対して新たな境地を開いた。彼女は男性のように力強く、ストロークは美しい。彼女のボール捌きは幻想的だ。足りないものは経験だけだろう」と語っている。
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