相模が丘とは? わかりやすく解説

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相模が丘

読み方:サガミガオカ(sagamigaoka)

所在 神奈川県座間市

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

〒252-0001  神奈川県座間市相模が丘

相模が丘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 18:25 UTC 版)

日本 > 神奈川県 > 座間市 > 相模が丘
相模が丘
町丁
座間市立相模中学校
北緯35度30分33秒 東経139度25分26秒 / 北緯35.509269度 東経139.423817度 / 35.509269; 139.423817
日本
都道府県  神奈川県
市町村 座間市
人口情報(2023年(令和5年)8月1日現在[1]
 人口 23,202 人
 世帯数 12,483 世帯
面積[2]
  1.365015691 km²
人口密度 16997.61 人/km²
設置日 当該地域各大字小字を統合・地番整理を施行し 1959年(昭和34年)4月20日、高座郡座間町大字相模台起立。<1981年(昭和56年)6月1日 相模が丘と町名変更し住居表示施行>
郵便番号 252-0001[3]
市外局番 042(相模原MA)(一、二、三丁目の相模が丘仲よし小道さくら百華の道以北と五丁目全域。)
046(厚木MA)(上記以外)[4]
ナンバープレート 相模
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相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市町名。現行行政地名は相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。

地理

神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1960年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し街路網自体は直線的である。

町名の紆余曲折

この地域は1889年(明治22年)の明治の大合併以前の座間宿村北部、そして新田宿村四ツ谷村小字飛び地で形成され、秣場(まぐさば)[5]、かつ、永らく本村の人々の耕作地であり芝原(しばあら)[6][7]と呼ばれた地であった[8]

地籍高座郡座間町[9][10]大字座間北広野・字中広野の各小字全域と・字南広野・字元広野・字元広野窪座間街道以北(現・相模が丘一丁目〜四丁目)、辰街道[11]を境界に大字新田宿飛び地字見分塚の大部分(現・相模が丘五丁目)、同飛び地字見分塚の残り部分と字新畑全域・大字四ツ谷飛び地字二ツ塚の座間街道以北(現・相模が丘六丁目)の各大字小字・飛び地である[12][13]

終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間、大字新田宿の小字飛び地である現地域での市街地化[14]の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年(昭和34年)4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。

その一方で、相模原市1957年(昭和32年)8月1日に国立病院前分室(「国病前分室」と略する)と言う相模原市役所の出張所を新規開設し、小田急相模原駅付近から大字新磯野、大字麻溝台の各東半部を管轄区域とした。ところが、この「国病前分室」を1959年(昭和34年)に相模台分室と改称、同年1959年(昭和34年)5月1日に相模原市立相模台小学校が開校、神奈川県立相原高等学校の化学工業科が分離独立する形で、1963年(昭和38年)に、のちに全国高校ラグビー大会1993年1994年に2連覇し「台工」の愛称で親しまれた神奈川県立相模台工業高等学校[15]が開校し、1966年(昭和41年)には国立相模原病院の南に隣接して日本住宅公団相模台団地が建設され入居が開始、翌1967年(昭和42年)4月1日に相模原市立相模台中学校が開校されるなど、相模原市側で「相模台」の地名を多用するようになった[16]

相模原市は1969年(昭和44年)7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年(昭和45年)7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町が編成されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台とが隣接して併存することとなり、混乱をきたした[17]

行政上、大字名または町名として「相模台」を先に施行していたのは高座郡座間町、座間市であるのは史実として明確である。1971年(昭和46年)11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年(昭和56年)6月1日に大字相模台地区で住居表示[18]を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために町名を相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。

歴史の時系列と詳細

この地は既に1880年(明治13年)、高座郡座間宿村(現・相模が丘一丁目)、新田宿村飛び地字見分塚(現・相模が丘五丁目)、上鶴間村(現・相模原市南区南台五丁目)、新戸村(現・相模原市南区相模台二丁目)、各村の境界域(現・小田急相模原駅北口付近)[19]に中和田新開[20]開墾[21]され、上鶴間村分には人が住み着いて耕作していたが、各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めた。

その後、1894年(明治27年)になって開拓者たちは次々と府中みち(現・行幸道路)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。その人中の内、中和田新開の座間分に最初に住み着いたのは座間上宿出身の耕作者たった一軒だけであった[22]1919年(大正8年)には14戸にまでなった中和田新開は府中みち(現・行幸道路)と辰街道[23]。の交差する未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の「原点」となった。

大きな転換点[24]となったのは、1938年(昭和13年)の臨時東京第三陸軍病院の進出である。新磯村大字磯部字大野[25]に同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鉄道が、同年1938年(昭和13年)3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町[26]大野村との境界付近に病院前駅[27]を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路[28]周辺が市街化する契機となった。

そののち戦時色が濃くなった1943年(昭和18年)に座間分の新田宿飛び地である、当時の高座郡相模原町大字新田宿飛び地字見分塚(現・相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。大部分が東京市内から移り住んだ人たちである。皆、昭和十八年にこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」[29]という親睦会を作った[30][31][32]

当時のこの地は一面、クワムギ陸稲を栽培する耕作地であったが、段上の地であることが災いし「水」がなく苦労した。太平洋戦争の終戦後しばらく経って、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)が1953年(昭和28年)に通水開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は畑地灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった。1955年(昭和30年)には町営水道が完成するとともに宅地化され[33]1960年(昭和35年)には現・六丁目に小田急住宅が完成し、全域で宅地市街化。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え1970年(昭和45年)に通水終了。

略史

年表

  • 1938年(昭和13年)3月1日:小田原急行鉄道小田原線・病院前駅開業[34]
  • 1953年(昭和28年):畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)通水開始。
  • 1955年(昭和30年):座間町営水道給水開始。
  • 1959年(昭和34年)4月20日:当該地域の各大字小字を統合し、高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
  • 1960年(昭和35年)6月19日:大字相模台の町田電報電話局管内[35]の電話、東京23区・八王子局・武蔵野三鷹局・立川局・調布局・武蔵府中局・青梅局間、同年7月31日相模原橋本局間でダイヤル自動即時化[36]市外局番02744、市内局番なし 例 旧表記・町田xx番→新表記・02744-00xx⇒1961年(昭和36年)11月5日・全国ダイヤル自動即時化[37] 市外局番0427、市内局番22⇒1964年(昭和39年)1月30日 市外局番0427、市内局番42・44[38][39]
  • 1965年(昭和40年)5月30日:座間電報電話局管内[40]の電話、全国ダイヤル自動即時化(市外局番0462・市内局番51 例 旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx)。
  • 1966年(昭和41年):座間郵便局(現・座間中宿郵便局)が相模台256番地(現在地)に移転開設し集配局となる。
  • 1968年(昭和43年):町内の郵便番号が付与される。(〒228)
  • 1970年(昭和45年):畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)通水終了。
  • 1971年(昭和46年)11月1日:市制施行。
  • 1972年(昭和47年):相模台出張所(現、相模が丘コミュニティーセンター)開設。
  • 1976年(昭和51年):座間市立相模が丘小学校開校。
  • 1977年(昭和52年):北地区文化センター開設。
  • 1979年(昭和54年):座間市立相模中学校開校。
  • 1981年(昭和56年)6月1日:住居表示実施。
  • 1982年(昭和57年):座間市立相模が丘プール開設。
  • 1983年(昭和58年):座間市消防署北分署開設。
  • 2000年(平成12年):電話番号逼迫に伴い相模が丘の一部、市外局番(0427地域)が042へ3桁化。
  • 2001年(平成13年):電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。
  • 2010年(平成22年)4月1日:相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。

世帯数と人口

2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
相模が丘一丁目 2,644世帯 4,529人
相模が丘二丁目 1,928世帯 3,478人
相模が丘三丁目 1,622世帯 3,033人
相模が丘四丁目 1,906世帯 3,520人
相模が丘五丁目 2,655世帯 4,822人
相模が丘六丁目 1,728世帯 3,820人
12,483世帯 23,202人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[41]
19,766
2000年(平成12年)[42]
22,561
2005年(平成17年)[43]
22,646
2010年(平成22年)[44]
23,214
2015年(平成27年)[45]
23,298
2020年(令和2年)[46]
23,880

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[41]
8,603
2000年(平成12年)[42]
10,050
2005年(平成17年)[43]
10,165
2010年(平成22年)[44]
10,838
2015年(平成27年)[45]
11,226
2020年(令和2年)[46]
12,183

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[47]

丁目 番・番地等 小学校 中学校
相模が丘一丁目 全域 座間市立相模が丘小学校 座間市立相模中学校
相模が丘二丁目 全域
相模が丘三丁目 全域
相模が丘四丁目 全域 座間市立相模野小学校
相模が丘五丁目 全域 座間市立相模が丘小学校
相模が丘六丁目 全域 座間市立相模野小学校

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[48]

丁目 事業所数 従業員数
相模が丘一丁目 130事業所 1,711人
相模が丘二丁目 73事業所 420人
相模が丘三丁目 55事業所 291人
相模が丘四丁目 72事業所 642人
相模が丘五丁目 151事業所 784人
相模が丘六丁目 58事業所 1,374人
539事業所 5,222人

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[49]
573
2021年(令和3年)[48]
539

従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[49]
5,426
2021年(令和3年)[48]
5,222

交通

鉄道

町内に鉄道駅はない。

バス

  • 神奈川中央交通東の路線
    • (小02)小田急相模原駅 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅
    • (小03)小田急相模原駅 - 小松原入口 - イオンモール座間 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅
    • (小05)小田急相模原駅 -(直行)- イオンモール座間

道路

施設

  • 座間市立相模が丘小学校
  • 座間市立相模中学校
  • 座間市民球場
  • 相模台病院
  • 座間郵便局
  • コジマ×ビックカメラ 座間店
  • 相模が丘コミュニティセンター
  • 座間市役所 北地区文化センター
  • 座間市消防本部 座間市消防署北分署
  • 座間市立北地区児童ホーム

その他

日本郵便

脚注

  1. ^ a b 町丁字別年齢別人口統計表(令和5年)” (CSV). 座間市 (2023年8月8日). 2023年8月16日閲覧。 “(ファイル元のページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月16日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b 相模が丘の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  5. ^ 共同の草刈り場
  6. ^ 『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』
  7. ^ 江戸末期嘉永6年(1853年)、芝原(しばあら)と呼ばれた相模が丘広野台から小松原ひばりが丘東原にかけて開拓がはじまった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末座間市略年表』
  8. ^ 「江戸街道」と言う江戸三宅坂へ向かう古道が町内の中央部を縦貫している。府中みち(現・行幸道路)の相武台前駅踏切を渡り、左へ進み相模野小学校下、小池窪の坂(元広野と元広野窪の境界道)を直進し農道(現・座間街道)を渡り、当時の芝原中央部を縦貫し、上鶴間村下鶴間村の境の道で、八王子道(滝山道)を越え鶴間村町谷原町田市南町田町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿江戸三宅坂へ向かう大山街道(矢倉沢往還)に合流。
  9. ^ 『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』
  10. ^ 1889年明治22年)の明治の大合併で座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村を統合し座間村を新設。1937年昭和12年)に町制施行。1941年(昭和16年)4月29日、座間町は大野村新磯村上溝町麻溝村外3村と合併し高座郡相模原町となったが、1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町が分離独立した(現・座間市域)。
  11. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間・海老名・綾瀬・大和を経て藤沢に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。
  12. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』『座間むかしむかし第6集・夏草騒動』『座間むかしむかし第7集・冬草騒動~大字境の確定』『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり』
  13. ^ 『座間の地名・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』
  14. ^ 1955年には座間町営水道が完成。すると土地の値段が倍になり、この地域が畑地耕作地から急速に市街地化する決定的な出来事になった。
  15. ^ 現・神奈川県立神奈川総合産業高等学校
  16. ^ ただし神奈川県立相模台工業高等学校(現・神奈川県立神奈川総合産業高等学校)の所在地は文京一丁目であり相模台分室(現・相模台まちづくりセンター)の管轄区域内ではない。また、相模原市立相模台小学校は南台六丁目、相模原市立相模台中学校は桜台に所在する。
  17. ^ 同様の例はやや南の相武台についても見られ、座間市相武台は、座間市の相武台として2013年平成25年)10月15日に住居表示を施行した。
  18. ^ 不動産登記法に基づく地番は、1959年(昭和34年)4月20日に大字相模台として新しい大字を新設した際、新たに地番の付け直した地番のまま。
  19. ^ それらの村は1889年(明治22年)の明治の大合併により同郡座間村(大字座間、大字新田宿小字飛び地)、大野村(大字上鶴間)、新磯村(大字新戸、大字磯部)となった。
  20. ^ 座間分の本村である座間宿村や座間入谷村、新田宿村、四ツ谷村栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』。中和田新開の詳細は相模台の頁を参考されたし。
  21. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』
  22. ^ 高座郡座間村大字座間字北広野(現・座間市相模が丘一丁目)の最北端に住み着いた。高座郡新磯村大字新戸(現・相模原市南区相模台二丁目)・高座郡大野村大字上鶴間(現・相模原市南区南台五丁目)・高座郡座間村大字新田宿飛び地字見分塚最北端(現・横浜銀行相模台支店)の境界域付近で、まさしく中和田新開の中心部である。
  23. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間・海老名・綾瀬・大和を経て藤沢にいたる街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。
  24. ^ 『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』
  25. ^ 大字磯部飛び地ではなく地続きになっている。昭和4年(1929年)刊行 土地宝典・高座郡新磯村地番反別入図より
  26. ^ 1937年(昭和12年)に単独で町制施行。1941年(昭和16年)4月29日、座間町は大野村、新磯村、上溝町麻溝村ほか3村と合併し高座郡相模原町となったが、1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町(現・座間市域)が分離独立した。
  27. ^ 開業してすぐに相模原駅と改称、再度1941年(昭和16年)に「小田急相模原駅」と改称
  28. ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(旧・国立病院通り)。往時は高座郡座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛び地字見分塚、大野村大字上鶴間と新磯村大字新戸・大字磯部の境界となっていた。
  29. ^ 『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり』
  30. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子』『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』
  31. ^ 『座間の語り伝え 外編1・軍事施設の進出』
  32. ^ 戦時中、旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、芝原の小田急相模原駅一帯を通称相模台と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』
  33. ^ 『座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子』『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』
  34. ^ 開業してすぐに相模原駅と改称、再度1941年(昭和16年)に「小田急相模原駅」と改称
  35. ^ 町田市(手動式柿生交換局管内の三輪町を除く)、相模原市上鶴間・麻溝台・鵜野森全域、大沼・磯部・新磯野の一部、座間町大字相模台の一部。※1960年6月19日当時
  36. ^ 1961年11月5日の全国ダイヤル自動即時化までは、市外局番:東京23区03、川崎04、横浜05、武蔵野三鷹022、武蔵府中0236、調布024、立川025、八王子026、青梅028、町田02744、相模原橋本02772、大阪06。名古屋は交換手扱い。『日本電信電話公社関東電気通信局「関東電信電話百年史. 上」(1968年3月刊行)』より。
  37. ^ 1961年11月5日、全国ダイヤル自動即時化に際し、都内除く南関東地区に04が当てられた。従って川崎044、日吉0446(1966年7月10日044-61に変更)、中原0447(1966年12月4日044-72に変更)、溝ノ口0448(1964年10月25日044-82)に変更、登戸0449(1963年12月8日044-91に変更。1965年12月12日手動式柿生交換局は自動即時化044-98、1965年11月26日登戸局百合丘分局開設、自動即時化044-96)、横浜045、戸塚04692(※1962年3月11日045に変更)、武蔵野三鷹0422、田無0421、武蔵府中04236、調布0424、八王子0426、青梅0428、町田0427、相模原橋本04277、小田原0465、国府津04650(※1963年10月1日、0465-47に変更)、箱根0460、湯河原04606、厚木0462(※1963年12月5日ダイヤル自動即時化)、大和0462(※1964年2月23日ダイヤル自動即時化)、煤ヶ谷046288(※半自動)、藤沢0466、鎌倉0467、茅ケ崎04670、横須賀0468、三浦04688、逗子04693、大磯・二宮・秦野0463、西秦野0463-01(※半自動)、平塚0463(※1964年5月31日ダイヤル自動即時化)となった。名古屋052・大阪06『日本電信電話公社関東電気通信局「関東電信電話百年史. 上」(1968年3月刊行)』より。
  38. ^ 相模原市の町田局管内を除く、相模原橋本局(市外局番04277)外、各手動式交換局を統合した相模原電報電話局開局につき市外市内局番変更(市外局番0427、市内局番51<中央・相模原・淵野辺・矢部・清兵衛新田の一部>・61<上溝・田名・大沢>・72<橋本・相原・清兵衛新田>・78<当麻・下溝>)。
  39. ^ 相模原電報電話局開局につき町田電報電話局管内の相模原市上鶴間・麻溝台・鵜野森全域、大沼・磯部・新磯野一部・座間町大字相模台一部は市内局番42・44に変更。町田市内、原町田22・鶴川35・南95・忠生91・小山97・相原72。
  40. ^ 座間町(大字相模台の町田電報電話局管内・大字栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部・新磯野の大部分※1965年当時
  41. ^ a b 平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
  42. ^ a b 平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
  43. ^ a b 平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
  44. ^ a b 平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
  45. ^ a b 平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
  46. ^ a b 令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
  47. ^ 小・中学校の通学区域” (2022年12月7日). 2023年8月16日閲覧。
  48. ^ a b c 経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
  49. ^ a b 経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
  50. ^ 郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。




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