政令指定都市移行へ
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ウィキソースに地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令の一部を改正する政令の原文があります。 小川勇夫市長は2006年10月23日、「2007年度予算編成方針」について記者会見を行い、2007年度重点施策に政令指定都市の調査研究として政令市に関する調査委託が盛り込まれた。具体的には民間のシンクタンクに調査委託するほか、他の政令指定都市を参考にしながら、市の実態や拠点としての都市機能など具体的に研究していく見通しとして、研究結果を定期的な会議を通して意見交換するなど、共同で検討していくと述べた。 2006年12月22日には相模原市自治会連合会が「政令指定都市への移行実現について」の相模原市長への要望及び相模原市議会議長への陳情を行った。市は同日「2007年度行政組織について」報道提供を行い、政令指定都市への移行を視野に入れた局制の導入による庁内分権の推進などを表明した。 2007年1月1日の市広報紙及び市ウェブサイトに掲載された、小川勇夫相模原市長の「年頭のごあいさつ『新市まちづくりスタートの年』」には、「新しい総合計画の策定に向けた取り組みとともに、政令指定都市への移行に向けた検討を進めてまいります。」とのコメントがあった。同年1月24日、相模原商工会議所が「政令指定都市の実現について」の相模原市長への要望及び相模原市議会議長への陳情を行った。市は同年1月29日、政令指定都市移行に関する調査費2,635万円を盛り込んだ 「2007年度一般会計当初予算案」を発表。目的は「市の都市形態や機能などを全国の自治体と比較し、自らの長所や課題を探る」とした。調査は国の外郭団体「地方自治研究機構」に委託し、都市の拠点性や商業施設の集積度、財政力といったデータを集積して他都市と比較・検証するとした。同年1月30日、相模原市農業協同組合が市長に対し、政令指定都市の実現に向けて取り組むよう要望書を提出した。 2007年1月31日、小川勇夫市長が市議会3月定例会の施政方針演説で、2010年3月末までの政令指定都市移行を目指し、2007年4月1日付で「政令市推進課」を新設すると正式に表明した。同年2月15日、相模原市は市議会3月定例会で、政令指定都市への移行には児童相談所、精神保健福祉センター、国県道維持管理等の機能を県などから引き継ぐため、少なくとも150人から170人程度の職員増が必要との見通しを明らかにした。 これを受けて松沢成文神奈川県知事は同2007年2月15日の県議会2月定例会の所信表明演説で、「相模原市長は去る1月31日に、今回の合併を契機に、平成22年3月までに政令指定都市への移行をめざすことを表明されました。これは自らの地域のことは自らの意思で決定し、その財源、権限と責任も自らが持つという、地域主権の理念にかなったものであり、県といたしましても、市からの要請に応じて実現に向け協力をしてまいります。」と述べ、政令指定都市移行を支援する方針を表明した。 2007年3月11日に城山町と藤野町を編入し、合併特例の政令市移行要件とみられる人口70万人を超えたため(法定人口:701,568人)、政令指定都市の候補市になった。また、津久井町・相模湖町・城山町・藤野町を編入したことにより、横浜市に次ぐ神奈川県2位の面積となった。 2007年3月8日の市議会3月定例会の本会議第8日(最終日)、政令指定都市移行に関する市内3団体(相模原市自治会連合会、相模原商工会議所、相模原市農業協同組合)からの陳情が採択された。 小川勇夫市長は政令指定都市を目指すことを表明したものの、同2007年3月8日に体調不良を理由とする辞職願が助役の代読により表明され、同年3月21日に肺炎のため逝去した。 2007年4月22日の市長選挙で、合併特例法の期限内での政令市移行を目指すことを公約とし、小川から後継指名を受けていた前助役の加山俊夫が市長に選出され、翌4月23日に市長に当選、引き続き2010年3月までの政令市移行を目指すことになった。 2007年5月16日 加山俊夫市長が菅義偉総務大臣と面会し、政令指定都市移行に関する理解と指導を求めた。同年5月22日、加山俊夫市長が松沢成文神奈川県知事に対し、政令指定都市移行への支援を正式に文書で要請した。翌5月23日には市役所に政令指定都市推進本部会議を設置し、移行に向けた本格的な取り組みを開始し、 2007年5月31日、加山俊夫市長が政令指定都市移行に向けた取り組みについて記者会見を行った。内容は以下のとおり。 政令指定都市ビジョンを2007年度中に策定する。 区制は、2007年度に行政区画、区名、区役所の位置・機能について庁内で検討の上、市民意見を反映させる。2008年度に行政区画等審議会から答申を受け、区画・区名を決定し、区役所設置の準備を開始する。 神奈川県からの事務移譲に関する協議は、県市連絡会議を設置し、2008年春の基本協定締結を目指す。 2007年7月26日、政令指定都市移行に関する県からの事務移管について協議を行うため、第1回神奈川県・相模原市政令指定都市移行連絡会議が開催された。同年8月8日には産業経済団体をはじめ、教育・文化、保健・医療、福祉、労働など各分野からの民間団体を母体として「相模原市政令指定都市推進市民協議会」を設立した。 2007年9月25日、相模原市が市議会9月定例会の政令指定都市に関する特別委員会で、行政区の区割り検討試案を明らかにした。3区制2案と、4区制2案の計4案を試案し、区役所位置も想定している。 3区制2案1-1 旧相模原市を南北へ2区に分け、旧津久井地域を1区とした区分け。 1-2 橋本地区を除いた旧相模原市を南北へ2区に分け、旧津久井地域と橋本地区を加えた地区を1区とした区分け。 4区制2案2-1 旧相模原市の3拠点を中心に3区に分け、旧津久井地域を1区とした区分け。 2-2 橋本地区を除いた旧相模原市の2拠点を中心に2区に分け、橋本地区と旧津久井地域の旧城山町を加えた部分を1区に分け、残りの旧津久井地域(旧津久井町、旧相模湖町、旧藤野町)を1区とした区分け。 (4区制の場合、旧相模原市の3拠点中心に3区に分ける時は、公共施設が集まる橋本、相模原、相模大野の3拠点を基準に区分けする場合である。) 2007年11月12日、県市連絡会議幹事会議が開催される。翌2008年1月28日から2月9日まで、相模原市が「政令指定都市に関する市民説明会」を市内26ヶ所で開催する。同年2月4日には第2回県市連絡会議が、同年年3月25日には第3回県市連絡会議が、同年5月29日には第4回県市連絡会議が開催された。 2008年4月1日から21日にかけて、行政区画等審議会の委員を募集。5月31日には行政区画等審議会の初会合が開かれた。審議会委員は推薦委員および学識経験者、一般公募市民の計23名。 2008年6月17日 第2回行政区画等審議会が開かれ、区割り案が1-2と2-2に絞られた。 2008年7月1日 第3回行政区画等審議会が開かれ、区割り案1-2(3区制)を採用することに決定。 2008年7月15日 第4回行政区画等審議会が開かれ、区割り案1-2(3区制)を採用する答申案の文章を一部修正の上で答申することを決定。 2008年7月18日 行政区画等審議会会長は、区割り案1-2(3区制)の採用を、加山市長へ正式に答申した。 2008年9月2日、政令指定都市移行に係る県協議の状況及び財政収支の見通しについて発表。同年9月10日、第5回県市連絡会議が開催された。 2008年9月19日、行政区画の編成案が決まる(区割り案1-2の3区制)。各区の区域は旧相模原市域は本庁および出張所の単位。 A区:橋本、大沢、城山町、津久井町、相模湖町、藤野町 B区:大野北、田名、上溝、本庁 C区:大野中、大野南、麻溝、新磯、相模台、相武台、東林 同年11月18日、政令指定都市移行に係る県市の基本協定を締結。同年12月20日には市議会12月定例会の本会議で、相模原市の政令指定都市の実現に関する意見書を可決した。 2008年10月15日から11月14日まで区名案を募集し、同年11月25日に第6回行政区画等審議会が開かれ、区名の候補が選定された。「簡潔さ」「親しみやすさ」などを基準に、委員らが各区5候補を絞り込んだ。なお「橋本」「津久井」「大野」など、特定の地名を連想させる区名は候補から外された。 A区:北区、西区、緑区、けやき区、みどり区 B区:中央区、中区、ひばり区、桜区、さくら区 C区:南区、東区、あじさい区、ひばり区、光区 2008年12月15日から2009年1月14日まで、相模原市民と市内通勤・通学者を対象に、各区5候補の区名意向調査を行った。同年1月23日に区名意向調査の結果が明らかになり、最多得票がA区は「北区」、B区は「中央区」、C区は「南区」であった。同年1月26日に第7回行政区画等審議会が開かれ、A区は「緑区」、B区は「中央区」、C区は「南区」とする答申案をまとめた。A区については「緑区」と「みどり区」の合計数が「北区」の投票数を上回ることや、区内に津久井湖、宮ヶ瀬湖などを有するため水源地としてふさわしい名称として選ばれた。行政区画等審議会会長は同年2月4日、A区を「緑区」、B区を「中央区」、C区を「南区」とする答申案を加山市長へ正式に答申した。 2009年2月6日の市議会臨時会で、市民団体が制定を求めていた政令指定都市移行の是非を問う住民投票条例案を否決。同年3月24日の県議会2月定例会の本会議で、相模原市の政令指定都市の指定に関する意見書を可決した。 2009年3月31日に県議会4会派が共同で、相模原市の政令指定都市への移行に慎重な対応を求める要望書を内閣総理大臣と総務大臣に提出した。 2009年4月19日付の毎日新聞報道で、A区の名称について「緑区」ではなく「北区」にするよう、A区となる地域の住民からの陳情などが相次ぎ、A区の名称を市庁内で再検討していることが明らかとなった。同年5月2日付の毎日新聞報道で、相模原市が市民団体「相模原市政令指定都市推進市民協議会」に対して補助金を支出していたことに対し住民監査請求をしていた件について「補助金支出に裁量権の逸脱、乱用があるような事実はうかがえない」として請求を棄却したことが報道された。また、同年6月14日付の毎日新聞報道で、A区となる地域住民から出されている「A区を北区とすることについて」の陳情を不採択にし、審議会の答申通り「緑区」とする見通しが明らかとなった。 2009年7月3日、相模原市と総務省との事前協議がまとまったため、松沢成文知事が相模原市の政令指定都市移行実現を求める要望書を佐藤勉総務大臣宛てに提出、加山俊夫市長などが同行した。 2009年7月14日の政令指定都市推進本部会議で、行政区の名称(区名)を行政区画等審議会の答申どおり、A区は緑区、B区は中央区、C区は南区とすることが決定された。また津久井地域の地域自治区設置期間の変更と住所表記についても決まり、旧町名を冠した地域自治区の名称が住所表記から外れることになった。 2009年7月17日、市民団体が相模原市の政令指定都市の指定見送りを求める署名を総務大臣宛てに提出する。原口一博総務大臣は同年10月2日、相模原市が2010年4月1日より政令指定都市に移行することを市長と県知事に通知した。これを受けて市民団体は10月5日、総務大臣の「相模原市の政令指定都市移行」指示に対する抗議文書を総務大臣宛てに提出する。 2009年10月23日に鳩山由紀夫内閣がこの日の定例閣議で、相模原市を2010年4月1日より政令指定都市に移行させる閣議決定を行った。同年10月28日付『官報』で、指定都市の指定に関する政令の一部を改正する政令(政令第251号)が公布され、政令指定都市への移行が正式に決定。同年12月21日の市議会12月定例会の本会議で「相模原市区の設置等に関する条例」が可決され、区の名称(緑区・中央区・南区)・区域などが原案どおり決定された。 2010年4月1日、相模原市は政令指定都市に移行した(日本国内19番目)。これに伴い、市内全域において郵便番号が「228-08xx」及び「229-xxxx」から「252-0xxx」に変更された。
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