建軍期とは? わかりやすく解説

建軍期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:43 UTC 版)

ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)」の記事における「建軍期」の解説

1956年1月9日西ドイツ空軍最初志願兵ネルフェニッヒ航空基地空軍教育中隊迎えたこの日が西ドイツ空軍建軍始まりとされる同年多数機関設立されアメリカから供与されF-84FRF-84Fなど西ドイツ空軍初の航空機獲得する。しかし、現代空軍建設にとり必要なもの不足している事が明らかとなる。第二次世界大戦の終結から10年経過空軍基礎をなす指揮通信機能後方支援業務発達ジェット機および地対空ミサイル普及能力向上大幅に進んでおり、新生空軍重点的整備方針核兵器運用変更する西ドイツ空軍指導部当初北部と南部配置されNATO部隊である2個戦術空軍通じて指揮された。イギリス第2戦術空軍アメリカ第4戦術空軍(ATAF)はそれぞれアーヘン=カッセル線を境に、第2は北部域を、第4は南部域を担当し分散配置されていた。総合空軍局改称後空軍局中枢任務に対して責任負っていた。 1957年空軍任務範囲形成する。これによってレンツブルク所在し陸軍防空砲兵部隊空軍のために地対空ミサイル部隊編成した最初航空部隊エルディング航空基地で第61輸送飛行隊が、最初の戦闘任務部隊ビューヒェル航空基地にて第31戦闘爆撃航空団編成準備される1958年西ドイツ空軍最初徴集兵召集され一年後空軍ミサイル部隊カウフボイレンの第11ミサイル群)に配属されるミサイル部隊戦術核搭載可能なマタドール対地巡航ミサイル装備し1958年に初の戦闘機部隊である第71戦闘航空団(アールホーナー・ハイデ飛行場所在初代司令エーリヒ・ハルトマン空軍大佐)がカナディア F-86戦闘機配備する1960年ロッキード F-104戦闘機パイロット初め訓練され、そしてこの機種購入されドイツ連邦軍におけるスターファイター時代訪れる。1966年同機調達絡んだスターファイター事件起き空軍総監ヴェルナー・パニツキ空軍中将引責辞任する。スターファイター戦闘機ラストフライト1991年インゴルシュタット/マンヒンク航空基地行われた

※この「建軍期」の解説は、「ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)」の解説の一部です。
「建軍期」を含む「ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)」の記事については、「ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)」の概要を参照ください。


建軍期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 03:48 UTC 版)

大日本帝国陸軍の歴史」の記事における「建軍期」の解説

大政奉還のもと新政府天皇親政目指し権力基盤たる兵権掌握図った。しかし、統一され軍備整えるには資金人材そして時間足りなかった。そのため当初長州藩薩摩藩などの諸藩の兵で間に合わせるしかなかった。 鳥羽・伏見の戦い端を発する戊辰戦争急速に拡大し新政府直属軍隊編成急ぎ1868年慶応4年1月17日)に軍務担当する機関として海陸軍科新設した。その後軍防事務局慶応4年2月3日)、軍務官慶応4年閏4月21日)、兵部省明治2年7月8日)と、次々改称編組が行なわれた。兵部卿小松宮彰仁親王が、兵部大輔大村益次郎が任ぜられた。大村在任期間1年半短かった兵権確立について 海・陸軍省を建設すること 海・陸兵学寮を建築すること 陸軍屯所兵営)を建築すること 銃砲火薬製造所を作ること 軍医病院設立すること 以上5点基本目標にし、非能率な官僚組織野武士そのままであった藩兵を再編成することとなった戊辰戦争勝利した板垣退助は、御親兵創設構想して明治2年1869年5月旧幕フランス人将校・アントアンや、旧伝習隊沼間守一らを土佐藩迅衝隊軍事顧問採用フランス式練兵行い、さらに国民皆兵断行するため、明治3年1870年11月7日全国先駆けて人民平均の理」を布告し四民平等国防の任に帰する事を宣した明治2年6月17日新暦1869年7月25日)に版籍奉還されたが依然として各藩勢力侮りがたく、明治新政府はこれらに対抗し統制するために天皇直隷軍隊を持つことを必要としていた。明治3年2月各藩常備定員定められ同年8月欧米軍事視察終えた山県有朋西郷従道らが帰国し兵部省入りした後、同10月各藩ごとばらばらであった兵式をフランス陸軍式に統一し改革推し進めた新政府富国強兵国策掲げ11月13日新暦1871年1月3日)には徴兵規則制定された。12月には常備兵編制法が設けられ各藩兵制規格統一図った明治4年2月13日薩摩藩長州藩土佐藩の献兵約6,000からなる御親兵組織され4月には東北地方東山道鎮台本営石巻)、九州西海道鎮台本営小倉)の2箇所鎮台を置く事となった。この御親兵鎮台常備兵力を背景新政府明治4年7月14日新暦1871年8月29日廃藩置県断行し8月には懸案であった各藩士族兵を解散させ、そのうち志願者から(これを壮兵という)東京・大阪・鎮西東北の4か所に新設され鎮台員数割り当てたその後兵部省内に陸軍部海軍部が設けられ兵制大きく変化し新体制整えられ明治4年近代日本陸軍始まりである。 明治5年11月徴兵令施行し兵役区分明文化され明治6年1月発布し歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵ごとに常備軍部隊編入され鎮台入営した同じく1月には軍制改正がなされ、6個鎮台・6個軍管にし逐次定員充足した1872年明治5年2月兵部省陸軍省海軍省分離して新設され陸海軍中央機関分立した。この時点持って公用語呼称として海陸軍から陸海軍改められ御親兵近衛兵改称し近衛局をおき、近衛都督天皇直隷となった明治7年になり近衛鎮台歩兵大隊制から連隊制に移行し天皇から軍旗親授された。北海道第7軍管管轄であった鎮台設けられず、かわりに屯田兵置かれ半農半兵にして憲兵身分を持つ屯田兵北海道開拓対ロシア防備の任に就いた急速な兵制改革兵力拡大は軍幹部の不足を招き、これらの養成急務であり各種学校整備進められた。慶応4年7月京都兵学校が、明治2年兵学校兵学所に改称し横浜には語学所が置かれフランス語教育がなされ京都河東仏式伝習所設けられた。大阪には兵学寮がおかれ、これらの学校機関逐次吸収し青年学舎幼年学舎教導隊組織された。明治3年11月には海軍兵学寮改称あわせて大阪兵学寮陸軍兵学寮改め明治4年末には近畿地方にあった教育機関逐次東京移転した1873年明治6年8月教導隊兵学寮から独立して下士官教育担当する陸軍教導団に、1874年明治7年11月陸軍士官学校が、1875年明治8年5月陸軍幼年学校陸軍戸山学校設けられ従来兵学寮は廃止された。さらに陸軍幼年学校1877年明治10年1月廃止され陸軍士官学校組み入れられ陸軍士官学校幼年生徒となった

※この「建軍期」の解説は、「大日本帝国陸軍の歴史」の解説の一部です。
「建軍期」を含む「大日本帝国陸軍の歴史」の記事については、「大日本帝国陸軍の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「建軍期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「建軍期」の関連用語

建軍期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



建軍期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのドイツ空軍 (ドイツ連邦軍) (改訂履歴)、大日本帝国陸軍の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS