建軍までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 21:08 UTC 版)
第一次世界大戦勃発時、中華民国は中立の立場であったが、袁世凱の腹心・梁士詒は中国の労働要員を連合国側に派遣する契約を英・仏政府と交わし、1917年1月18日より派遣が開始された労働者が戦地で物資の運搬や塹壕掘削に従事していた(中国労工旅(中国語版))。国務総理・段祺瑞は中国の参戦により国際的地位を高め、義和団賠償金や関税問題の解決を図ろうとし、更に日本から軍備と資金の供与を受けて自軍の建設を図っていたが、参戦に反対する立場の大総統・黎元洪と対立し「府院の争い」を展開していた。一方、大隈内閣の対華21カ条要求による反日感情悪化と袁世凱の帝政瓦解を反省した寺内内閣は、親善策への転換による山東省・満州利権獲得を目指し、2月13日、西原亀三を北京に派遣し、段祺瑞、曹汝霖、梁啓超に参戦すれば参戦費用・建軍費用3千万円程度を援助するほか、治外法権撤廃、義和団賠償金約2億円の還付、関税引き上げを列強に承認させる事などを提示した。また、黎元洪が支持していたアメリカも2月8日に米公使(英語版)ポール・ラインシュが外交部に対し、ドイツと断交すれば財政援助をすると提示し、また本格参戦した4月になるとイギリスとともに中国の参戦を求め、条件として義和団賠償金支払い延期、関税引き上げ等を提示した。 3月14日に対独国交断絶の議会可決にこぎ着けた段祺瑞は、参戦を強行しようとし、さらに督軍団を扇動して閣僚、大総統・黎元洪を脅迫し参戦建議を通過させたが、5月10日の国会審議では四大金剛の一人・傅良佐に扇動された群衆が「公民団」を称して国会を取り囲み議員に採決するよう脅迫したり、反対派とされた議員を暴行したため、この日の採決は不能、それに激怒した群衆は議員の車を破壊するなど制御不能となった(第二次公民団事件)。これが仇となり、参戦建議は完全に頓挫した。翌日、病気療養中の范源濂を除く閣僚が一斉に辞職した。18日、英字新聞は参戦軍が日本からの借款で編成される計画であることを告発。孤立した段祺瑞は、23日に国務総理を罷免され、第一次段内閣(中国語版)は瓦解した。 張勲復辟を経て政界に返り咲いた段祺瑞は、8月4日、参戦案を順当に通過させ、14日、連合国としてドイツに宣戦布告した。また17日、小銃、機関銃、山砲、野砲及び弾薬購入を申し出た。翌年2月22日に2万7千挺、機関銃50挺、砲若干が秦皇島に到着するが、積み下ろし直後の24日夜、奉天軍副司令も兼ねていた徐樹錚により北京政府に無断で奉天派へ送られた。この計画は、事前に芳澤謙吉ら日本公使館関係者には詳細に伝えていたが、日本政府側は静観の姿勢を取った。 第2次段内閣崩壊後の12月18日、大総統・馮国璋は段祺瑞を大戦の対外軍事業務を管轄する「参戦督弁」に任じた。この職は名ばかりの官職で、馮としては段の、実質存在しない軍事外交部門への封じ込めを意図していたが、参戦業務という性質上、段は関係する軍や政府の各部門に直接指示を出せるようになったほか、日本との接触も公然と行えるようになった。 段祺瑞の復権を狙う日本は、軍事協定締結による参戦督弁の名実化を目指し、翌1918年(民国17年)2月、日本陸軍軍事顧問の坂西利八郎少将は馮国璋に対し、安直両派の軋轢の原因は段祺瑞の地位が有名無実であるためで、日支両国軍事協同の方針確定のためにも速やかに参戦督弁処を組織化し、常設軍事諸機関との権限を明確にしてほしいと要請した。その結果、2月25日、7条からなる「督弁参戦事務処組織令」が公布され、ロシア革命による中国北辺の防衛強化を趣旨とし、国際参戦業務に関連する糧食準備や軍備整備などの事項を所管各部と協議して処理する権限が同処に与えられた。一方で西南方面の勢力は激しく反発し、雲南督軍唐継尭、広西督軍譚浩明らは相次いで通電で反対を表明した。理由は、大総統ではなく督弁という立場の人間が戦争指導を行う事が臨時約法違反であるという事、また北方政府との開戦を恐れての事であった。 3月1日、参戦督弁処が黄寺に設置、段祺瑞を引き続き参戦督弁として、徐樹錚が参謀長に就任。各部総長が参賛、各部次長が参議となった。また、同月以降、奉天軍用として支出するはずだった予算515万元のうち330万元を安福国会と参戦軍編成に流用した。 3月25日、東京において中国公使の章宗祥と日本外務大臣の本野一郎との間で日支共同防敵軍事協定の締結と、その見返りとして参戦借款供与の合意が交わされ、5月16日に北京で陸軍協定が、同月19日に海軍協定及びその説明書が結ばれた。陸軍協定については、同年9月6日に詳細協定が結ばれた。9月28日、朝鮮銀行総裁・美濃部俊吉、駐日公使・章宗祥の間で日本が中国へ二千万円の参戦借款を提供する契約が結ばれた。 段祺瑞は参戦建議時点では1917年4月25日、督軍団を建議へ焚きつける際に「兵を送らずとも労働者だけでいい」「労働者を送るだけで戦勝国になれる」と現状維持路線をとる発言をしていた。だがシベリア出兵時、段祺瑞は坂西に対し、「北満ニ於テ日本ノ対露行動ニ関シ共同動作ヲ取ル為之レカ準備費用ヲ用意シ置ク必要アリ」とし、「該費用ヲ以テ精鋭ナル軍隊ヲ組織シ外與国トノ関係ニ利用シ、内支那統一之大目的ニモ供セン」と参戦軍編成への意欲を示し、その援助を申し入れた。
※この「建軍までの経緯」の解説は、「参戦軍」の解説の一部です。
「建軍までの経緯」を含む「参戦軍」の記事については、「参戦軍」の概要を参照ください。
- 建軍までの経緯のページへのリンク