建設開始と中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:25 UTC 版)
建設計画が発表されたのは1955年(昭和30年)のことで、浅草寺が新本堂建設のために売却し、その後埋め立てられたひょうたん池(大池)の跡地を買い取った中央区の阿部鹿蔵が「なにか浅草にプラスする名物をつくりたい」として、十河信二国鉄総裁、大神一山一證券社長、今里広記日本精工社長、稲山嘉寛八幡製鐵理事、出羽海日本相撲協会理事長などが発起人となり、浅草新世界株式会社を設立(資本金:1,500万円)。名店街、娯楽、レクリエーションを兼ねた一大殿堂を建設し、家族連れや仕事帰りにちょっと一杯と、楽しく一日中遊べる「凌雲閣」の近代版を狙う、とした。当時の計画では、フロア構成は以下の通りであった。 8階から12階 - 展望台 5階から7階 - アイススケート場、ホール、娯楽施設 4階 - 大食堂 3階 - 産業 2階 - 雑貨売場 1階 - 土産品売場 地下1階 - 飲食店、キャバレー 地下2階 - 大衆浴場、トルコ風呂などの温泉 1955年(昭和30年)8月にビルの建設工事は開始された。しかし完成予定であった1957年(昭和32年)秋になっても完成したのは外郭のみで、暮れには工事が中断されることとなる。理由は想定よりも人気が集まらず借り手がつかなかったこと、工事を請け負った日本機械貿易を吸収した第一物産が金融引締めなどの影響で資金難になったことがあった。また、阿部商店が破産して資金調達が不可能になったためともされる。東急会長の五島慶太にビルごと売りに出したが、これも拒否されての中断であった。
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