建設開始から全線開通に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:05 UTC 版)
「愛知電気鉄道」の記事における「建設開始から全線開通に至るまで」の解説
豊橋線建設は東海道電気鉄道正式合併に先立つ1922年(大正11年)5月より開始された。 経路上の碧海郡知立町においては三河鉄道の知立駅(現・三河知立駅)へ乗り入れる計画であったが、同社との協議がまとまらなかったことから愛電は三河鉄道知立駅の共同使用を諦め、三河鉄道の路線とは立体交差で接続して、交差部付近に愛電の新知立駅(後の東知立駅)を設置する形に計画を変更した。この設計変更によって工事が遅れたため、新知立駅予定地西方に仮設の駅を設置して暫定開業することとし、1923年(大正12年)4月1日に有松裏 - 新知立(仮)間9.2 kmが開通した。 その後、同年6月1日に新知立(仮) - 西岡崎(現・岡崎公園前)11.4 kmが開通し、この時新知立駅を本来の予定地へ移転した。同年8月8日には西岡崎 - 東岡崎間1.3 kmが開通、この段階では路線名称を「岡崎線」とした。 東岡崎以東に関しては、東海道電気鉄道により既に一部区間において測量が行われていた。また、経路の途中に位置する宝飯郡御油町より分岐して、宝飯郡牛久保町に至る路線(仮称「豊川線」)が新たに計画された。これは日本三大稲荷の一つである豊川稲荷への参拝客需要を見込んだものであり、1923年(大正12年)8月29日付で敷設免許を取得した。ただし、同路線の詳細な経路や、豊橋線においても終点となる吉田駅の場所選定などが不透明な状況であったことから、経路の確定した東岡崎 - 御油間の建設を先行させることとし、1924年(大正13年)4月より建設に着手した。 その後、吉田駅への乗り入れについては、豊川鉄道の小坂井駅付近において同社路線と接続し、線路を共用して吉田へ至ることを計画し、豊川鉄道と乗り入れ交渉を行った。当初豊川鉄道側は難色を示したが、愛電の豊川線(仮)が開通した後には、従来名古屋より省線を利用して豊橋(吉田)経由で豊川鉄道線に乗車した豊川稲荷参拝客の大半が、乗り換えなしで直行する愛電へ流出するとの予測に対して危機感を抱き、後に協調姿勢に転じた。協議の結果、愛電は御油 - 小坂井間を建設、小坂井より豊川鉄道の豊川まで直通運転を行うこととし、また吉田駅の乗り入れについては、愛電の要望通り両社で線路を共用することが1925年(大正14年)4月に決定した。 御油以東の経路が確定したことから建設は急ピッチで進められ、中途経路決定が遅れたことによる用地買収の遅れなどもあったものの、1926年(大正15年)4月1日に東岡崎 - 小坂井間26.1 kmが開通した。同日より神宮前 - 豊川間の直通列車が運行されたほか、小坂井駅における対面乗り換えによる豊橋方面への連絡運輸も行われた。 残る豊橋(吉田)方面への路線については、1926年(大正15年)5月24日に宝飯郡下地町より豊橋市に至る路線の敷設免許を取得、国府 - 小坂井間に伊奈信号所(現・伊奈駅)を新設して分岐し、同じく新設する平井信号所にて豊川鉄道線と合流、従来の豊川鉄道線の北側に愛電による単線構造の新線を敷設して両社で共用し、複線運転を行うこととした。 1927年(昭和2年)6月1日に伊奈信号所 - 吉田間5.0 kmが開通し、約5年の工期を経て豊橋線は神宮前 - 吉田間62.2 kmの全線が開通した、総建設費は約1600万円にのぼり、これは当時の資本額を超え、総資産額の約6割に相当する巨額であった。 愛電は全線開通と同時に豊橋線のダイヤ改正を行い、神宮前 - 吉田間に主要駅にのみ停車する急行列車を60分間隔で設定、うち1往復を東岡崎・伊奈の2駅にのみ停車する特急列車とし、これらの優等列車には全線開通時に導入した新型車両電7形を充当した。特急は神宮前 - 吉田間を63分(表定速度59 km/h)、急行は同区間を72分(同52 km/h)で結び、当時の東海道本線の普通列車が熱田 - 豊橋間に110分を要していたことと比較して大幅な所要時分短縮を実現した。また、これら優等列車の表定速度は当時の私鉄路線において最速とされた阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)神戸線の普通列車の51 km/hを上回り、日本国内の私鉄路線において運行される列車では最速を記録した。
※この「建設開始から全線開通に至るまで」の解説は、「愛知電気鉄道」の解説の一部です。
「建設開始から全線開通に至るまで」を含む「愛知電気鉄道」の記事については、「愛知電気鉄道」の概要を参照ください。
- 建設開始から全線開通に至るまでのページへのリンク