建造から18世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:51 UTC 版)
「アンコール・ワット」の記事における「建造から18世紀まで」の解説
9世紀初頭に成立したクメール帝国(アンコール朝)はアンコール周辺に都城を建設して王都としていた。しかし、12世紀前半に即位したスーリヤヴァルマン2世はそれまでの都城に代わり、隣接地に新王宮を建設し、その南隣に国家鎮護のための新しいヒンドゥー教寺院を建設した。これがアンコール・ワットである。これまでアンコール朝で主流だったシヴァ派に代わり、この寺院はスーリヤヴァルマン2世の篤く信仰するヴィシュヌ派の寺院として創設された。アンコール・ワットはスーリヤヴァルマン2世の在位中、30年を超える歳月を費やし建設されたものの、一部は未完成のままとなった。13世紀後半のジャヤーヴァルマン8世の時代には改修が行われ、西からの参道が建設された。1296年から1297年にかけてアンコールを訪れた元の周達観は、真臘風土記の中で「魯般の墓」としてアンコールワットのことを書き記している。 1431年頃にアンコールが放棄されスレイ・サントー(英語版)に王都が遷ると、一時は忘れ去られるが16世紀半ばに再発見され、アンチェン1世(フランス語版)は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソター王(フランス語版)は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという(再発見と言う意味でフランス語でもう一度という意味のencore(アンコール)と由来を説明されることもあるが、誤りであり言語的な関連もまったくない。)。 1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マダレーナ(英語版)が西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。17世紀前半には朱印船貿易を通じて日本人にアンコール・ワットの存在が知られるようになったが、当時の日本人はこの寺院を祇園精舎と誤って認識していた。しかし、通航の増大により、日本から巡礼客が訪れるようになり、これは1635年の海外渡航禁止まで続いた。当時の日本人参拝客の墨書はアンコール・ワットの各所に残されているが、なかでも1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」という墨書は広く知られている。また、この時日本人巡礼客によってアンコールワットの実測図が作成されており、『祇園精舎図』として水戸徳川家に所蔵され、現在でも水戸市の彰考館に所蔵されている。この図の作成者は長崎の通詞・島野兼了とされてきたが、彼は実在しない人物であり、近年の調査で上記の森本一房によって作成されたとの説が有力となっている。 その後、18世紀末にはアンコール・ワットを含むシェムリアップ州はシャムに割譲された。しかし、カンボジアにおいてアンコール・ワットは聖性を保ち続けており、口承や年代記でも語り継がれるなど、存在が忘れられていたわけでは全くなかった。
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