建造からミッドウェー海戦までとは? わかりやすく解説

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建造からミッドウェー海戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 03:52 UTC 版)

不知火 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「建造からミッドウェー海戦まで」の解説

1937年昭和12年8月30日陽炎型全19隻の中で最初に浦賀船渠起工した1938年昭和13年4月15日不知火命名された。6月28日進水1939年昭和14年12月20日竣工したが、陽炎の竣工11月6日)より約1か月半遅れ、同型2番となった呉鎮守府所属となり、陽炎朝潮型駆逐艦2隻()の3隻が所属していた第18駆逐隊第二艦隊第二水雷戦隊)に編入した。第18駆逐隊は主に内地訓練従事した1940年昭和15年10月11日横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に第18駆逐隊僚艦と共に参加18駆は第三列(金剛榛名熊野鈴谷最上利根筑摩、《陽炎》、大潮朝潮荒潮満潮、《不知火》、黒潮雪風初風)に配置された。1941年昭和16年9月1日駆逐隊司令宮坂義登大佐着任した9月29日司令艦がから不知火変更された。 第18駆逐隊真珠湾攻撃参加するため第二水雷戦隊外れ、第17駆逐隊谷風浦風浜風磯風)、駆逐艦秋雲と共に第一航空艦隊警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官)に編入した。第18駆逐隊11月18日大分県佐伯湾出撃した。警戒隊は空母赤城加賀蒼龍飛龍翔鶴瑞鶴主力部隊護衛し11月26日単冠湾出港ハワイ作戦参加した1942年昭和17年1月5日、第18駆逐隊は呉を出発以降第一航空艦隊同行しラバウル攻撃参加2月には第二航空戦隊司令官山口多聞少将)のポートダウィン攻撃ジャワ南方機動作戦参加した3月1日オランダ商船モッドヨカード(8020トン)と遭遇商船国籍を示さなかったため駆逐艦磯風有明夕暮陽炎共同砲撃し不知火撃沈したインド洋作戦参加して3月26日セレベス島出港し4月5-9日のセイロン沖海戦勝利して作戦終えると、不知火以下第18駆逐隊日本本土戻り、呉で入渠修理行った4月20日第一航空艦隊支援した各隊は元所属部隊指揮下に戻り、第18駆逐隊第二水雷戦隊復帰した。 モッドヨカード砲撃では各駆逐艦遠距離から砲撃大量弾薬消費したため、第一航空艦隊草鹿龍之介参謀長らが注意促している。 5月発動されミッドウェー作戦で、第二水雷戦隊攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属した第二水雷戦隊上陸部隊輸送船団護衛としてサイパン5月24日到着し6月上旬ミッドウェー海戦では主力艦護衛した海戦後、第18駆逐隊大破した重巡最上トラック泊地まで護衛した

※この「建造からミッドウェー海戦まで」の解説は、「不知火 (陽炎型駆逐艦)」の解説の一部です。
「建造からミッドウェー海戦まで」を含む「不知火 (陽炎型駆逐艦)」の記事については、「不知火 (陽炎型駆逐艦)」の概要を参照ください。

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