建造からミッドウェー海戦まで
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「不知火 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「建造からミッドウェー海戦まで」の解説
1937年(昭和12年)8月30日、陽炎型全19隻の中で最初に浦賀船渠で起工した。1938年(昭和13年)4月15日、不知火と命名された。6月28日に進水。 1939年(昭和14年)12月20日に竣工したが、陽炎の竣工(11月6日)より約1か月半遅れ、同型2番艦となった。呉鎮守府の所属となり、陽炎と朝潮型駆逐艦2隻(霞、霰)の3隻が所属していた第18駆逐隊(第二艦隊・第二水雷戦隊)に編入した。第18駆逐隊は主に内地で訓練に従事した。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に第18駆逐隊の僚艦と共に参加。18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。1941年(昭和16年)9月1日、駆逐隊司令に宮坂義登大佐が着任した。9月29日、司令艦が霞から不知火に変更された。 第18駆逐隊は真珠湾攻撃に参加するため第二水雷戦隊を外れ、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)、駆逐艦秋雲と共に第一航空艦隊警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官)に編入した。第18駆逐隊は11月18日に大分県の佐伯湾を出撃した。警戒隊は空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の主力部隊を護衛し、11月26日に単冠湾を出港、ハワイ作戦に参加した。 1942年(昭和17年)1月5日、第18駆逐隊は呉を出発。以降も第一航空艦隊に同行し、ラバウル攻撃に参加、2月には第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)のポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦に参加した。3月1日にオランダの商船モッドヨカード(8020トン)と遭遇、商船が国籍を示さなかったため駆逐艦磯風、有明、夕暮、陽炎と共同で砲撃し、不知火が撃沈した。インド洋作戦に参加して3月26日にセレベス島を出港し、4月5-9日のセイロン沖海戦に勝利して作戦を終えると、不知火以下第18駆逐隊は日本本土に戻り、呉で入渠修理を行った。4月20日、第一航空艦隊を支援した各隊は元所属部隊の指揮下に戻り、第18駆逐隊も第二水雷戦隊に復帰した。 モッドヨカード砲撃では各駆逐艦が遠距離からの砲撃で大量の弾薬を消費したため、第一航空艦隊の草鹿龍之介参謀長らが注意を促している。 5月に発動されたミッドウェー作戦で、第二水雷戦隊は攻略部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属した。第二水雷戦隊は上陸部隊輸送船団の護衛としてサイパンに5月24日に到着し、6月上旬のミッドウェー海戦では主力艦を護衛した。海戦後、第18駆逐隊は大破した重巡最上をトラック泊地まで護衛した。
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