CATOBAR空母の検討と挫折
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「アドミラル・クズネツォフ (空母)」の記事における「CATOBAR空母の検討と挫折」の解説
ソ連海軍は、ロシア革命直後の建軍期から航空母艦の取得を積極的に検討してきたが、ソビエト連邦の造船業と経済の状況、また第二次世界大戦の勃発によって、いずれも実現しなかった。ヨシフ・スターリン共産党書記長の死後、ニコライ・クズネツォフ海軍総司令官(海軍相を兼務)は85型軽防空空母(満載排水量28,400トン、タイガー戦闘機40機搭載)の設計承認までこぎつけたものの、ニキータ・フルシチョフ第一書記は核戦力整備を優先するよう指示しており、また1955年に、イタリアから戦時賠償として獲得していた戦艦「ノヴォロシースク」の喪失の責任を問われてクズネツォフ総司令官が更迭されたことから推進者を失い、後任のセルゲイ・ゴルシコフはフルシチョフの意向を受け入れて、計画の中止を命じた。 その後、1964年にフルシチョフ第一書記が失脚すると、ゴルシコフ総司令官は、アンドレイ・グレチコ国防相やブトマ造船相とともに、クズネツォフの思想を引き継ぐかたちで空母建造を再度模索し始めた。1968年に作成された1970年代の艦艇建造計画にもとづき、レニングラードのネブスコエ設計局(以前の第17設計局)は、モリン設計官の指揮下に軽空母(AVL)の設計に着手した。原案では排水量50,000トン、艦載機38機とされていた。しかし、軍需産業の育成にあたっていたドミトリー・ウスチノフ副首相は、アメリカ合衆国と比較した場合にソ連は空母建造で大きく遅れをとっており、また蒸気カタパルトも実用化できていないことを考慮して、むしろ垂直離着陸機およびその搭載艦を優先すべきと主張したことから、AVL計画は断念された。その後もモリン設計官たちは空母の模索を続けており、1970年代には、AVL計画を発展させた1160型航空母艦として、4万トンから10万トンまで8つのプランを作成・提示した。1972年、海軍首脳部と造船省は原子力空母の案を採択したが、これは排水量85,000トン、艦載機80~85機のほか、グラニート艦対艦ミサイルやシュトルム艦対空ミサイルなどを搭載するというものであった。しかしウスチノフ副首相が、この設計の要素を1143型重航空巡洋艦に導入するよう指示したため、1160型の計画本体は断念されることになった。 1976年春、ソビエト政府は再度、1160型原子力空母とウスチノフ案を検討した結果、1977年、1143型の発展型として、1153型原子力重航空巡洋艦の開発を指示した。設計は、1160型と同じくネブスコエ設計局で行われたが、担当者はアニケエフ設計官に交代した。このときの設計では、排水量70,000トン、艦載機50機と予定されていた。また1975年にゴルシコフ総司令官がアメリカ海軍のレイクハースト海軍航空基地や練習空母「レキシントン」を視察した際の経験から、今回の計画には、艦上機の陸上実験・訓練センターの建設も盛り込まれた。しかし1976年にグレチコ国防相とブトマ造船相が相次いで死去し、STOVL空母に拘泥するウスチノフ副首相が国防相に就任したこともあって、1153型の計画は原案の段階で中止されてしまった。しかし艦上機の陸上実験・訓練センターのみ、黒海沿岸のサキ飛行実験センターにおいて「ニートカ(ロシア語版)」として建造が続行されることになり、空母保有への命脈はかろうじて保たれた。同センターでは、1143型重航空巡洋艦の主機関用と同型のボイラーが設置され、これを用いた蒸気カタパルトの試験が進められることとなった。
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