国内外での成功とは? わかりやすく解説

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国内外での成功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:48 UTC 版)

エドワード・エルガー」の記事における「国内外での成功」の解説

エルガー伝記作家であるバジル・メインはこうコメントしている。「1900年アーサー・サリヴァン死去すると、異なタイプ作曲家であるにもかかわらず多くの者にとってエルガーが国一番の音楽家として彼の真の後継者であることは明白であった。」エルガー次作強く待ち望まれていた。そこで彼が1900年のバーミンガム・トリエンナーレ音楽祭英語版)に向けて書き下ろしたのは、枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンの詩を題材とした複数独唱者、合唱管弦楽のための『ゲロンティアスの夢であった初演指揮リヒター受け持ったが、合唱隊の準備が不十分でひどい歌唱となったエルガー深く意気消沈したが、評論家たちは不出来な演奏だったにもかかわらず曲の熟達度合い見抜いていた。この曲は1901年と続く1902年にも、ユリウス・ブーツ指揮によりドイツデュッセルドルフ演奏されている。ブーツ1901年に『エニグマ変奏曲』のヨーロッパ初演指揮した人物である。ドイツ紙面はこれを熱狂的に報じた。ケルン・ガゼット紙は次のように伝えている。「第1部第2部ともに我々は不朽の価値を持つ美しさ出会うことになる。(中略エルガーベルリオーズワーグナーリストの肩の上立ちながら、自らが重要な個性獲得するに至るまで彼らの影響から解き放たれている。彼は現代の音楽芸術牽引する1人である。」デュッセルドルファー・フォルクスブラット誌の評は次の通りである。「忘れがたい記念碑的初演であったリスト時代以降オラトリオ形式作品が何も生まれてこなかった(中略)ついにこの宗教的カンタータ偉大さ重要さ行き当たったのである。」当時主導的作曲家広く目されていたリヒャルト・シュトラウスは、深く感銘受けてエルガー面前で「イングランド初めての革新的音楽家、マイスター・エルガー」への乾杯の音頭取ったウィーンパリニューヨークで公演続き間もなくゲロンティアスの夢』はイギリス国内でも同様に称賛されるようになったケネディによれば「これは疑いなくオラトリオ形式書かれた最高のイギリス作品である(中略)(この曲は)イングランド合唱伝統新たな1章を開くとともにヘンデルへの偏向からの解放もたらした。」カトリック教徒であったエルガーは罪びとの死と贖いというニューマンの詩に深く感動したが、聖公会有力者らにはこれを認めない者もいた。エルガー同僚であったチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードは、この作品が「悪臭放っている」と不平漏らしたグロスター大聖堂首席司祭1901年より聖堂での『ゲロンティアスの夢』の演奏禁止し翌年にはウスター大聖堂でも演奏許可下す前に首席司祭から不穏当な箇所削除命じられた。 エルガーはおそらく1901年から1930年にかけて作曲された5曲の『威風堂々』の第1曲によって最も知られるだろう。毎年全世界向けて放映され数えきれない視聴者目にするプロムス最終夜では、伝統的にこの曲が演奏されている。第1番ゆったりした中間部分専門的にトリオ呼ばれる)の主題ひらめいた時、エルガー友人のドーラ・ペニーにこう述べている。「皆を打つ - 打ちのめす旋律思いいたんだ。」1901年ロンドンプロムナード・コンサートにおいて第1番行進曲初演された際のことを、指揮行ったヘンリー・ウッド次のように記した。「(聴衆は)立ち上がり叫び声をあげた(中略プロムナード・コンサート歴史において管弦楽曲2度アンコールという栄誉受けた、ただ1度出来事である。」エドワード7世戴冠式を飾るため、1901年6月ロイヤル・オペラ・ハウス行われたガラ・コンサート向けてエルガーはアーサー・クリストファー・ベンソン(英語版)の『戴冠式頌歌』への楽曲提供委嘱された。王の許可確認されるエルガー楽曲取り掛かったコントラルトであったクララ・バットからの、『威風堂々第1番』のトリオにちょう合わせた歌詞付けられるという言葉納得したエルガーは、ベンソンそうするよう要請したエルガー頌歌にその新し声楽版を組み込んだこの声作品希望と栄光の国』に可能性感じ取った楽譜出版社は、エルガーベンソンに対して独立した楽曲として出版するためにさらに改訂加えるように依頼した。この曲は絶大な人気獲得しイギリスにおいては今や第2の国歌称されている。アメリカではトリオが『威風堂々もしくは卒業行進曲』として知られており、1905年以降ほぼすべての高校並びに大学卒業式採用されている。 その後オラトリオ使徒たち』(1903年)、オラトリオ神の国』(1906年)を発表50代にして作曲した交響曲第1番1908年)とヴァイオリン協奏曲1910年)は、瞬く間成功を収めることとなった。ただし、交響曲第2番1911年)、チェロ協奏曲1919年)の聴衆からの当初の反応芳しくなく、イギリスオーケストラ演奏会レパートリーとして定位置占めるに至るには何年もの歳月費やした。それでも、これらの作品交響習作フォルスタッフ』(1913年)といった傑作次々と作曲したエルガーは、名実共に英国楽壇重鎮となる。 1904年3月ロイヤル・オペラ・ハウスにおいて3日間にわたってエルガー作品取り上げた音楽祭開催された。これはイングランド作曲家には初め与えられ栄誉であったタイムズ紙の評には次のようにある。「4、5年前に、もしイングランド人オラトリオ聴くためにオペラ・ハウスが床から天井までの超満員になると予言した人がいたとしたら、おそらくその人正気ではないと思われたことだろう。」国王エドワード7世アレクサンドラ妃は、リヒターが『ゲロンティアスの夢』を指揮した初日演奏会出席しオラトリオ使徒たち』のロンドン初演が行われた2日目にも再び訪れた音楽祭最終日にはエルガー自身指揮により、『カラクタクス』からの抜粋歌曲集海の絵全曲クララ・バット歌唱)を除くと、主に管弦楽曲披露された。演奏され楽曲は『フロワサール』、『エニグマ変奏曲』、『コケイン』、『威風堂々』の最初の2曲(当時第2番までが作曲されていた)、そしてイタリアで休暇から着想得て書かれ新作序曲南国にて』の初演であった1904年7月5日バッキンガム宮殿においてエルガーナイト叙された。翌月には彼は家族と共にPlâs Gwyn移り住んだ。家はヘレフォード郊外ワイ川を見下ろす大きな邸宅であり、一家1911年までそこに留まった。1902年から1914年までの間エルガーは、ケネディ言葉借りるならば人気絶頂にあった。彼は4度アメリカへと渡っており、そのうち1回指揮行って自作演奏により多額報酬受け取っていた。1905年から1908年にかけて、彼はバーミンガム大学音楽ペイトン教授Peyton Professor)を務めた。いち作曲家音楽学校率いるべきではないと考えていたエルガーは、この職をしぶしぶ引き受けていた。彼はこの役職でいることに心落ち着かず彼の講義論争火種となった。ひとつの原因には彼が批評家に対してやり返したことがあり、また一方では彼が概してイングランド音楽攻撃的だったことが挙げられる。「低俗性はやがては洗練されるだろう。低俗はしばし創造性と共にあるものなのだ(中略)しかし、凡庸な精神はどうしても凡庸しかない。あるイングランド人が君を美しく調和取れた大きな部屋へと連れて行き君にこれは白だ - どこもかしこも白だ -と告げる。そして誰かがこう言うのだ。『なんと優雅な趣なのでしょうか。』君は自分の心、魂でこう感じるのだ。それは全く趣などではない、趣不足ではないか言い訳に過ぎないイングランド音楽は白い。そして言い訳ばかりしている。」彼は論争について後悔し1908年には友人グランヴィル・バントック喜んでこの役職引き継いだ彼の著名人としての新生活極度に神経質なエルガーにとって悲喜こもごもなものとなり、私生活侵害されるなどして彼はしばし体調崩した。彼は1903年イェーガー宛ててこう不満を漏らしている。「私の暮らし自分些細な楽しみを諦めることの連続だ。」ウィリアム・S・ギルバートトーマス・ハーディはこの10年間にエルガーとの合作機会欲していた。エルガーはこれを拒絶したが、もしジョージ・バーナード・ショーにその気があれば彼と共同制作行っていたと思われる1905年エルガー主要作品イェール大学教授だったサミュエル・サンフォード捧げられた『序奏とアレグロ』である。この年自作指揮すべくアメリカ訪れたエルガーイェール大学より博士号授与された。次なるエルガー大規模作品は『使徒たち』の続編となるオラトリオ神の国』(1906年であった。この曲の評判上々だったものの『ゲロンティアスの夢』のように大衆想像力射止めることはできず、またその状況変えられなかった。しかしながら、熱心なエルガーファンの中には、『神の国』をそれまで作品よりも好む者もいた。エルガー友人であったレオ・フランク・シュスターは若きエイドリアン・ボールトにこう述べている。「『神の国』に比較すると『ゲロンティアス』はまだ青いアマチュア作品だ。」50歳の誕生日迫りつつあったエルガーは、初めての交響曲着手した構想自体は約10年来彼の心にあり、様々な形式模索されていた。こうして完成した交響曲第1番国内外大きな成功収めた初演から数週間の間にニューヨークでウォルター・ダムロッシュウィーンフェルディナント・レーヴェサンクトペテルブルクアレクサンドル・ジロティライプツィヒアルトゥル・ニキシュがこの曲を振っている。さらにローマシカゴボストントロント及びイギリス国内50都市でも演奏された。わずか1年の間に交響曲第1番イギリスアメリカ、ヨーロッパでの演奏回数100回に到達したであった1910年ヴァイオリン協奏曲は、当時代表するヴァイオリニストであったフリッツ・クライスラーからの委嘱によって作曲された。エルガー作業取り組んだのは1910年夏季であり、ロンドン交響楽団率いていたウィリアム・ヘンリー・リードが時おり技術的な側面から助言与えたリード著した伝記『私の知るエルガー Elgar As I Knew Him』(1936年)には、エルガー作曲法詳細数多く記されている。初演ロイヤル・フィルハーモニック協会によって催されクライスラー独奏作曲者自身指揮ロンドン交響楽団によって演奏された。リード述懐にはこうある。「協奏曲は完全なる勝利を証明したコンサート輝かしく忘れ得ぬものとなった。」この協奏曲与えた衝撃大きくクライスラーライバルであったウジェーヌ・イザイ多く時間エルガーと共に過ごし、曲を調べ上げた契約上の理由からロンドンでの曲の演奏できないとわかり、イザイ大きな失望を味わうこととなったヴァイオリン協奏曲エルガー大衆的な成功収めた最後作品となる。翌年交響曲第2番ロンドン披露したエルガーであったが、曲の評判落胆することとなる。燃えるようなオーケストラ輝きに終わる第1交響曲とは異なり第2番静かに、瞑想的幕切れ迎える。初演立ち会ったリード後年記したところによると、エルガー拍手を受けるために何度舞台へ呼び出されたが、「ヴァイオリン協奏曲や第1交響曲終演後に見られたような聴衆イングランド人聴衆さえもがすっかり沸き立ち興奮顕わにするという、紛れもない様子見られなかった。」エルガーリードに「彼らはいったいどうしたというだ、ビリー。皆、腹一杯になったブタのように座っているではないか。」と尋ねた。この作品初演から3年間で27演奏され一般的な基準見れば成功と言えるだろうが、第1交響曲のような世界的な大騒ぎ」には至らなかったのである

※この「国内外での成功」の解説は、「エドワード・エルガー」の解説の一部です。
「国内外での成功」を含む「エドワード・エルガー」の記事については、「エドワード・エルガー」の概要を参照ください。

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