国内外での成功
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「エドワード・エルガー」の記事における「国内外での成功」の解説
エルガーの伝記作家であるバジル・メインはこうコメントしている。「1900年にアーサー・サリヴァンが死去すると、異なるタイプの作曲家であるにもかかわらず、多くの者にとってエルガーが国一番の音楽家として彼の真の後継者であることは明白であった。」エルガーの次作は強く待ち望まれていた。そこで彼が1900年のバーミンガム・トリエンナーレ音楽祭(英語版)に向けて書き下ろしたのは、枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンの詩を題材とした複数の独唱者、合唱と管弦楽のための『ゲロンティアスの夢』であった。初演の指揮はリヒターが受け持ったが、合唱隊の準備が不十分でひどい歌唱となった。エルガーは深く意気消沈したが、評論家たちは不出来な演奏だったにもかかわらず曲の熟達の度合いを見抜いていた。この曲は1901年と続く1902年にも、ユリウス・ブーツの指揮によりドイツのデュッセルドルフで演奏されている。ブーツは1901年に『エニグマ変奏曲』のヨーロッパ初演を指揮した人物である。ドイツの紙面はこれを熱狂的に報じた。ケルン・ガゼット紙は次のように伝えている。「第1部、第2部ともに我々は不朽の価値を持つ美しさに出会うことになる。(中略)エルガーはベルリオーズ、ワーグナー、リストの肩の上に立ちながら、自らが重要な個性を獲得するに至るまで彼らの影響から解き放たれている。彼は現代の音楽芸術を牽引する1人である。」デュッセルドルファー・フォルクスブラット誌の評は次の通りである。「忘れがたい記念碑的初演であった!リストの時代以降オラトリオ形式の作品が何も生まれてこなかった(中略)ついにこの宗教的カンタータの偉大さ、重要さに行き当たったのである。」当時の主導的作曲家と広く目されていたリヒャルト・シュトラウスは、深く感銘を受けてエルガーの面前で「イングランドで初めての革新的音楽家、マイスター・エルガー」への乾杯の音頭を取った。ウィーン、パリ、ニューヨークでの公演が続き、間もなく『ゲロンティアスの夢』はイギリス国内でも同様に称賛されるようになった。ケネディによれば「これは疑いなくオラトリオ形式で書かれた最高のイギリス作品である(中略)(この曲は)イングランドの合唱の伝統に新たな1章を開くとともに、ヘンデルへの偏向からの解放をもたらした。」カトリック教徒であったエルガーは罪びとの死と贖いというニューマンの詩に深く感動したが、聖公会の有力者らにはこれを認めない者もいた。エルガーの同僚であったチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードは、この作品が「悪臭を放っている」と不平を漏らした。グロスター大聖堂の首席司祭は1901年より聖堂での『ゲロンティアスの夢』の演奏を禁止し、翌年にはウスター大聖堂でも演奏許可を下す前に首席司祭から不穏当な箇所の削除が命じられた。 エルガーはおそらく1901年から1930年にかけて作曲された5曲の『威風堂々』の第1曲によって最も知られるだろう。毎年全世界に向けて放映されて数えきれない視聴者が目にするプロムス最終夜では、伝統的にこの曲が演奏されている。第1番のゆったりした中間部分(専門的にはトリオと呼ばれる)の主題をひらめいた時、エルガーは友人のドーラ・ペニーにこう述べている。「皆を打つ - 打ちのめす旋律を思いついたんだ。」1901年にロンドンのプロムナード・コンサートにおいて第1番の行進曲が初演された際のことを、指揮を行ったヘンリー・ウッドは次のように記した。「(聴衆は)立ち上がり叫び声をあげた(中略)プロムナード・コンサートの歴史において管弦楽曲が2度のアンコールという栄誉を受けた、ただ1度の出来事である。」エドワード7世の戴冠式を飾るため、1901年6月にロイヤル・オペラ・ハウスで行われたガラ・コンサートへ向けてエルガーはアーサー・クリストファー・ベンソン(英語版)の『戴冠式頌歌』への楽曲提供を委嘱された。王の許可が確認されるとエルガーは楽曲に取り掛かった。コントラルトであったクララ・バットからの、『威風堂々第1番』のトリオにちょうど合わせた歌詞を付けられるという言葉に納得したエルガーは、ベンソンにそうするよう要請した。エルガーは頌歌にその新しい声楽版を組み込んだ。この声楽作品『希望と栄光の国』に可能性を感じ取った楽譜出版社は、エルガーとベンソンに対して独立した楽曲として出版するためにさらに改訂を加えるように依頼した。この曲は絶大な人気を獲得し、イギリスにおいては今や第2の国歌と称されている。アメリカではトリオが『威風堂々』もしくは『卒業行進曲』として知られており、1905年以降ほぼすべての高校並びに大学の卒業式に採用されている。 その後、オラトリオ『使徒たち』(1903年)、オラトリオ『神の国』(1906年)を発表。50代にして作曲した交響曲第1番(1908年)とヴァイオリン協奏曲(1910年)は、瞬く間に成功を収めることとなった。ただし、交響曲第2番(1911年)、チェロ協奏曲(1919年)の聴衆からの当初の反応は芳しくなく、イギリスのオーケストラの演奏会レパートリーとして定位置を占めるに至るには何年もの歳月を費やした。それでも、これらの作品や交響的習作『フォルスタッフ』(1913年)といった傑作を次々と作曲したエルガーは、名実共に英国楽壇の重鎮となる。 1904年3月、ロイヤル・オペラ・ハウスにおいて3日間にわたってエルガー作品を取り上げた音楽祭が開催された。これはイングランドの作曲家には初めて与えられた栄誉であった。タイムズ紙の評には次のようにある。「4、5年前に、もしイングランド人のオラトリオを聴くためにオペラ・ハウスが床から天井までの超満員になると予言した人がいたとしたら、おそらくその人は正気ではないと思われたことだろう。」国王エドワード7世とアレクサンドラ妃は、リヒターが『ゲロンティアスの夢』を指揮した初日の演奏会に出席し、オラトリオ『使徒たち』のロンドン初演が行われた2日目にも再び訪れた。音楽祭の最終日にはエルガー自身の指揮により、『カラクタクス』からの抜粋と歌曲集『海の絵』全曲(クララ・バットの歌唱)を除くと、主に管弦楽曲が披露された。演奏された楽曲は『フロワサール』、『エニグマ変奏曲』、『コケイン』、『威風堂々』の最初の2曲(当時は第2番までが作曲されていた)、そしてイタリアでの休暇から着想を得て書かれた新作の序曲『南国にて』の初演であった。 1904年7月5日、バッキンガム宮殿においてエルガーはナイトに叙された。翌月には彼は家族と共にPlâs Gwynに移り住んだ。家はヘレフォードの郊外でワイ川を見下ろす大きな邸宅であり、一家は1911年までそこに留まった。1902年から1914年までの間エルガーは、ケネディの言葉を借りるならば人気の絶頂にあった。彼は4度アメリカへと渡っており、そのうちの1回は指揮を行って自作の演奏により多額の報酬を受け取っていた。1905年から1908年にかけて、彼はバーミンガム大学で音楽のペイトン教授(Peyton Professor)を務めた。いち作曲家が音楽学校を率いるべきではないと考えていたエルガーは、この職をしぶしぶ引き受けていた。彼はこの役職でいることに心落ち着かず、彼の講義は論争の火種となった。ひとつの原因には彼が批評家に対してやり返したことがあり、また一方では彼が概してイングランドの音楽に攻撃的だったことが挙げられる。「低俗性はやがては洗練されるだろう。低俗性はしばしば創造性と共にあるものなのだ(中略)しかし、凡庸な精神はどうしても凡庸でしかない。あるイングランド人が君を美しく調和の取れた大きな部屋へと連れて行き、君にこれは白だ - どこもかしこも白だ -と告げる。そして誰かがこう言うのだ。『なんと優雅な趣なのでしょうか。』君は自分の心、魂でこう感じるのだ。それは全く趣などではない、趣不足ではないか、言い訳に過ぎない。イングランドの音楽は白い。そして言い訳ばかりしている。」彼は論争について後悔し、1908年には友人のグランヴィル・バントックに喜んでこの役職を引き継いだ。彼の著名人としての新生活は極度に神経質なエルガーにとって悲喜こもごもなものとなり、私生活を侵害されるなどして彼はしばしば体調を崩した。彼は1903年にイェーガーに宛ててこう不満を漏らしている。「私の暮らしは自分の些細な楽しみを諦めることの連続だ。」ウィリアム・S・ギルバートとトーマス・ハーディはこの10年間にエルガーとの合作の機会を欲していた。エルガーはこれを拒絶したが、もしジョージ・バーナード・ショーにその気があれば彼と共同制作を行っていたと思われる。 1905年のエルガーの主要作品はイェール大学の教授だったサミュエル・サンフォードに捧げられた『序奏とアレグロ』である。この年、自作を指揮すべくアメリカを訪れたエルガーはイェール大学より博士号を授与された。次なるエルガーの大規模作品は『使徒たち』の続編となるオラトリオ『神の国』(1906年)であった。この曲の評判は上々だったものの『ゲロンティアスの夢』のように大衆の想像力を射止めることはできず、またその状況は変えられなかった。しかしながら、熱心なエルガーファンの中には、『神の国』をそれまでの作品よりも好む者もいた。エルガーの友人であったレオ・フランク・シュスターは若きエイドリアン・ボールトにこう述べている。「『神の国』に比較すると『ゲロンティアス』はまだ青いアマチュアの作品だ。」50歳の誕生日が迫りつつあったエルガーは、初めての交響曲に着手した。構想自体は約10年来彼の心にあり、様々な形式が模索されていた。こうして完成した交響曲第1番は国内外で大きな成功を収めた。初演から数週間の間にニューヨークでウォルター・ダムロッシュ、ウィーンでフェルディナント・レーヴェ、サンクトペテルブルクでアレクサンドル・ジロティ、ライプツィヒでアルトゥル・ニキシュがこの曲を振っている。さらにローマ、シカゴ、ボストン、トロント及びイギリス国内の50都市でも演奏された。わずか1年の間に交響曲第1番のイギリス、アメリカ、ヨーロッパでの演奏回数は100回に到達したのであった。 1910年のヴァイオリン協奏曲は、当時を代表するヴァイオリニストであったフリッツ・クライスラーからの委嘱によって作曲された。エルガーが作業に取り組んだのは1910年の夏季であり、ロンドン交響楽団を率いていたウィリアム・ヘンリー・リードが時おり技術的な側面から助言を与えた。リードが著した伝記『私の知るエルガー Elgar As I Knew Him』(1936年)には、エルガーの作曲法の詳細が数多く記されている。初演はロイヤル・フィルハーモニック協会によって催され、クライスラーの独奏、作曲者自身の指揮、ロンドン交響楽団によって演奏された。リードの述懐にはこうある。「協奏曲は完全なる勝利を証明した。コンサートは輝かしく忘れ得ぬものとなった。」この協奏曲が与えた衝撃は大きく、クライスラーのライバルであったウジェーヌ・イザイは多くの時間をエルガーと共に過ごし、曲を調べ上げた。契約上の理由からロンドンでの曲の演奏ができないとわかり、イザイは大きな失望を味わうこととなった。 ヴァイオリン協奏曲はエルガーが大衆的な成功を収めた最後の作品となる。翌年に交響曲第2番をロンドンで披露したエルガーであったが、曲の評判に落胆することとなる。燃えるようなオーケストラの輝きに終わる第1交響曲とは異なり、第2番は静かに、瞑想的に幕切れを迎える。初演に立ち会ったリードが後年記したところによると、エルガーは拍手を受けるために何度か舞台へと呼び出されたが、「ヴァイオリン協奏曲や第1交響曲の終演後に見られたような、聴衆、イングランド人の聴衆さえもがすっかり沸き立ち興奮を顕わにするという、紛れもない様子は見られなかった。」エルガーはリードに「彼らはいったいどうしたというだ、ビリー。皆、腹一杯になったブタのように座っているではないか。」と尋ねた。この作品は初演から3年間で27回演奏され、一般的な基準で見れば成功と言えるだろうが、第1交響曲のような世界的な「大騒ぎ」には至らなかったのである。
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