参議院議長
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戦後の参議院では、議事の遂行において公平を期すために議長在任中は党籍を離脱する慣例となっていた。なお松野以前の3人が所属していた緑風会は無所属議員のための会派であって身分的には無所属である。だが、戦前の帝国議会で唯一の公選によって選ばれていた衆議院の議長(通常は第一党から選出)は、その党籍を維持してその権威によって議事運営を行う一方で、第一党の独断的な動きに対しては党員としての発言力によって阻止し続ける事によってその暴走を食い止めるという慣例が存在していた。戦前立憲政友会に在籍していた松野はその時代の議長観を戦後になっても保持しており、他党の党籍離脱要求にも関わらず参議院議長在任中も党籍を維持。自民党会派にも所属し続けた。日米安保条約改訂などで政局が流動的な情勢の中、松野は己の議長観に忠実に従うことによって自民党側の強引な議事運営を防止しつつ、円滑な審議に尽力して一定の成果を収めたが、それは同時に「参議院の政党化」を促進する事にも繋がった。 松野の後任となった重宗雄三も同様に自民党所属のまま参議院議長を9年間務め、党内で絶対的な権力を持つに至った。議長の党籍、ないしは院内会派からの離脱が定着するのは、重宗の後任となった河野謙三が党籍を離脱してからである。 昭和37年(1962年)10月18日、78歳にて死去。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
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参議院議長
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3期9年間にわたり参議院のドンとして君臨し、池田勇人・佐藤栄作両政権を支えた。その影響力の強さから、佐藤・岸信介とともに長州御三家と呼ばれた。佐藤も重宗の意向に逆らっては法案審議もままならぬとて、しばしば議長室に自ら赴いて頭を下げるほどであった。 議長在籍時も自民党籍を持っていた重宗は、参議院自民党の過半を占める議員グループ「清風クラブ」を牙城に、参議院をまとめた。参議院自民党のトップとして閣僚人事にも影響を与えたため、閣僚推薦権を持っているはずの自民党参議院議員会長(林屋亀次郎ら)の存在感は薄らぐ一方であった。ポスト欲しさに日参する参議院議員は多く、「重宗詣で」と呼ばれた。その権勢から「重宗天皇」と称され、参議院は「重宗王国」とまで呼ばれた。 重宗は自民党全盛時代の参議院自民党の力をフルに活用し、しばしば危惧されていた「参議院の独自性」を守ろうとした節がある(松野鶴平の例と同じ)。議長時代には議事整理権などを駆使し、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定の強行採決をおこなった。 その独裁的な振る舞いや、総裁四選後の佐藤との関係悪化、さらには角福戦争も重なる中、「長いことはいいことだ」と四選を確信して議長選出馬宣言をする。しかし、河野謙三らのグループ「桜会」の批判勢力が台頭し、河野の議長選出馬を断念させる条件として自らが出馬断念に追い込まれた。さらに、重宗が後継議長候補として推した木内四郎に反発した自民党の一部議員と野党が推した河野が当選している。 参議院議長在任日数の3,242日は参議院史上最長記録である。 1974年(昭和49年)に政界引退、参議院議員当選5回を重ねた。1976年(昭和51年)3月13日死去。享年82。同年3月22日、青山葬儀所で自民党葬、告別式が行われた。
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参議院議長
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2010年(平成22年)7月の第22回参議院議員通常選挙で民主党が大敗し、民主党は参議院で過半数を割り込んだ。しかしなお参議院第一党であり、参議院議長は第一党から出すことになっている慣例を楯に民主党は西岡を議長に推すものの、前国会での江田参院議長、西岡参院議院運営委員長らの国会運営に反発する自民党執行部とみんなの党は自民党からの議長選出を主張した。しかし野党共闘は不調に終わり、自民・みんなの2党は議長選挙への野党統一候補の擁立を断念。西岡を江田の後任の議長とする流れが固まり、自民党は副議長候補を擁立することになった。西岡は同年7月21日、議院運営委員長として理事会で国会運営について野党に謝罪した。 しかし、議長選挙では全会一致で議長が決まるのが通例であるのに、西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、江口克彦(みんなの党)が11票、尾辻秀久(自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果となった。参議院議長就任に伴い離任した参議院議院運営委員長の後任は、自民党の鈴木政二参院国会対策委員長が就任し、議院運営委員長のポストは野党に明け渡すことになった。 参議院議長就任以降、民主党出身ながら民主政権の菅内閣に批判的な立場を取る等、中立が求められる参議院議長としては過去になかった異例の行動が多かった。議長としての異例な行動の理由に「日本の政治には、もう『余白』や『悠長な時間』が無い」と述べ、また「私へのチェック機能は議長不信任決議案(提出の可能性)などで担保されている」と説明した。 参議院史上初めて議長の記者会見の定例化に踏み切った。 参院選における一票の格差の是正等を目指し全党派の代表が参加する会議を新設。全国を9ブロックに分けた比例区による新選挙制度とする私案を提案。 詳細は「衆議院・参議院の選挙制度改革案一覧」を参照 2010年9月の民主党代表選挙に関し、候補者の出馬表明前の同年8月23日に「菅直人首相が続投を表明すれば、対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。党を去ることも選択肢に入る」と発言し小沢一郎の立候補を牽制した。民主党籍は持っているものの自らの投票権は棄権することもあわせて表明した。 内閣総理大臣菅直人の外交政策について「作戦、展望を持っていない」と痛烈に批判するなど、閣僚らに対し苦言を呈することも多かった。衆議院側で国土交通大臣馬淵澄夫や内閣官房長官仙谷由人らに対する不信任決議案が否決された際に、「責任は官房長官のほうが重い」と指摘した。さらに、尖閣諸島中国漁船衝突事件をめぐる仙谷の答弁について「法廷闘争的な答弁はしているが、政治的には通らない」と批判した。これを受け、仙谷は「参議院の議長が言っているのだから、重く受け止めたい。別に反論はない」と述べた。 2011年(平成23年)3月1日に衆議院から送付された2011年度当初予算案について、自民党などは予算案と共に歳入関連法案が参議院に送付されていないことを問題視した。憲法第60条2項の「衆議院の議決が優先されるのは、参議院が衆議院の可決した予算を受け取った後に議決しないとき」という内容の条文を根拠に、「予算を受領したか否かは参議院側において主体的に判断できる」などと主張した。西岡は議長としてこれに同調し、予算案の受け取りを留保し、衆議院が予算案を可決した同年3月1日と異なる同年3月2日付で予算案を受領した扱いにした。 2011年(平成23年)3月31日に、子ども手当を半年延長する「平成二十二年度等における子ども手当の支給に関する法律案」の採決で、参議院本会議が可否同数となった際に、議長決裁で可決とした。このことについて後に「元を糺せば、こういう政策を恒久的な財源がなく、一年間の時限立法でやるのがおかしかったが、実際問題として仮に法律が通らないと、かなり現場も混乱する」として、やむを得ない対応であったことを語った。 2011年(平成23年)5月11日に西岡の主導で東日本大震災の復興財源に充てる増税に反対する超党派の議員連盟が発足し、声明を発表した。 2011年(平成23年)5月19日の読売新聞に、東日本大震災の菅直人内閣総理大臣の対応を批判し、一刻も早く菅内閣が退陣するよう求める論文を寄稿した。 2011年(平成23年)6月、国家公務員の給与を削減する法案が衆議院に提出された際に、国家財政の悪化について理解を示しつつも、公務員労働三権や人事院制度等の公務員制度について、抜本的改革をせずに人事院との協議が不十分なまま給与削減をする趣旨に反発し、衆議院から送付された場合は参議院議院運営委員長との協議の上、人事院との協議が尽くされない限り、参議院としては法案を委員会に付託しない考えを示した。 2011年(平成23年)7月7日、第177回国会に6月2日に否決された内閣不信任決議は、同会期中に2回目の採決ができないとする一事不再議について、西岡は「提案者と不信任理由が異なれば2回目の採決は可能であり、(2回目の内閣不信任を)議院運営委員会で玄関払いしたり、衆議院議長が議題にしないということは不可能」と発言した。 2011年(平成23年)7月14日、民主党国会議員に対して菅首相を退陣させるために、民主党両院議員総会で代表の解任手続きと、衆議院での内閣不信任決議案と参議院での首相問責決議案を提出すべきだとする論文を発表した。 2011年(平成23年)8月31日、参議院本会議で閉会の挨拶の内容に、ねじれ国会であることを理由に、参議院へ法案を送らず、審議の時間を短縮して決断を迫り、政策推進の遅れを参議院に責任転嫁する姿勢に出たことは遺憾だと発言。野党議員から拍手が起こり、自民党の山本一太参院政審会長は「参議院の代表として正論を述べられた」と評価した。
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参議院議長
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保守党の解党により保守新党が結成されると党参議院議員会長に就任し、2003年11月21日に保守新党が解党されると、自民党総裁小泉純一郎と幹事長安倍晋三の誘いで9年7か月ぶりに自民党に復党する。2004年7月30日、第26代参議院議長に選出された。貴族院時代も含め、女性が日本の上院議長に就くのは憲政史上初めてで、衆参両院でも第68代衆議院議長土井たか子に次ぎ2人目だった。 2007年5月、次期参院選への不出馬と政界からの引退を表明する。引退後は夫と2人で互助新婚生活をしてみたいと語った。
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