参加作戦
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現在、イタリア軍は国際貢献に関する23件の作戦に派兵している。 国際連合国際連合インド・パキスタン軍事監視団(UNMOGIP)- 1951年開始。インド・パキスタン間の戦争行為(印パ戦争)の監視を目的とする。軍事監視団38名(8ヵ国軍)中8名。 国際連合休戦監視機構(UNTSO)- 1958年開始。中東情勢の監視・平和維持目的とする。休戦監視機構145名(23ヵ国軍)中23名。 国際連合レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)- 1978年開始。レバノン内戦の終結に向けた軍事介入と停戦維持を目的とする。暫定駐留軍1万2056名(36ヵ国軍)中1100名。 国際連合西サハラ住民投票ミッション(MINURSO])- 1991年開始。西サハラ独立問題の公正な住民投票による決着を目的とする。ミッション参加要員237名(29ヵ国軍)中5名。 国際連合キプロス平和維持軍(UNFICYP)- 2005年開始。キプロス紛争の停戦を目的とする。平和維持軍918名(20ヵ国軍)中4名。 国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団(UNAMID)- 2008年開始。アフリカ連合によるダルフール紛争介入の支援を目的とする。派遣団2万3129名(51ヵ国軍)中3名。 NATONATOコソボ治安維持部隊(KFOR)- 1999年開始。コソボの治安維持を目的とする。派遣団5500名(30ヵ国軍)中670名。 国際治安支援部隊(ISAF)- 2001年開始。ボン合意に基づくアフガニスタンの治安維持を目的とする。派遣団13万670名(49ヵ国軍)中4250名。 エンデバー作戦(Endeavour)- 2001年開始。地中海の不法航行防止を目的とする。17名派遣。 オーシャン・シールド作戦(Ocean Shield)- 2009年開始。アデン湾の不法航行防止を目的とする。240名派遣。 NATO軍マケドニア司令部- 将校12名(7ヵ国軍)中1名。 NATO軍ボスニア・ヘルツェゴヴィナ司令部- 将校42名(10ヵ国軍)中2名。 欧州連合欧州連合ボスニア・ヘルツェゴヴィナ駐留軍(EUPM)- 2003年開始。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの治安維持を目的とする。派遣団490名(33ヵ国軍)中3名。 欧州連合部隊アルシア作戦軍(EUFOR Althea)- 2004年開始。NATOに代わり、欧州連合部隊によるデイトン合意の監督を目的とする。派遣団2150名(25ヵ国軍)中5名。 欧州連合部隊ラファ作戦軍(EUBAM Rafah)- 2005年開始。ガザ地区の停戦監視を目的とする。派遣団22名(9ヵ国軍)中1名。 欧州連合グルジア軍事監視団(EUMM Georgia)- 2008年開始。グルジア内の分離独立運動と政府軍の停戦を目的とする。派遣団370名(26ヵ国軍)中15名。 ソマリア欧州連合海軍部隊(EUNAVFOR)- 2008年開始。ソマリア沖の海賊の掃討を目的とする。8名派遣。 欧州連合ソマリア訓練ミッション(EUTM Somalia)- 2010年開始。ソマリア国軍の訓練を目的とする。11名派遣。 多国籍軍・単独作戦等イスラエル・エジプト休戦監視団(MFO)- 1982年開始。イスラエル・エジプト間の休戦監視を目的とする。派遣団1700名(11ヵ国軍)中75名。 ヘブロン国際監視団(TIPH-2)- 1997年開始。ヨルダン川西岸地区の休戦監視を目的とする。派遣団37名(6ヵ国軍)中13名。 イタリア共和国マルタ軍事派遣団(IMMC)- 1988年開始。26名派遣。 イタリア共和国アルバニア軍事派遣団(IDE)- 1997年開始。17名派遣。 イタリア共和国リビア復興部隊(IOTA)- 2011年開始。10名派遣。
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参加作戦
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「F-117 (航空機)」の記事における「参加作戦」の解説
実戦初参加は1989年12月19日に行われた「ジャスト・コーズ作戦(Operation Just Cause)」の支援である。当初この作戦はパナマで一大麻薬組織と結託する独裁者マヌエル・ノリエガの誘拐であり、2機のF-117が参加したが途中で作戦目標がリオ・ハトのパナマ防衛軍(PDF:Panamanian Defence Force)を混乱させることに変更され、バックアップのために急遽別の2機が作戦に参加。最終的に更に2機が追加され、合計6機が作戦に加わった。この編隊はネバダのトノパーから出撃し、5回の空中給油を受けて目標へ飛行、2,000lb GBU-27A/BおよびBLU-109B/I-2000を投下したが目標の兵舎から数百フィートも外れて着弾し、作戦は後に議会から失敗だったと叩かれた。なお、このとき最初の爆弾投下を行なったのはグレッグ・フィースト少佐で、後に「砂漠の嵐」作戦に参加し、イラクでの爆撃も行なっている。 F-117が一躍有名となったのは1991年の湾岸戦争の際である。爆弾が命中するシーンの映像などが連日テレビで流され、ハイテク戦争を印象付けた戦争ではあったが、実際にはF-117以外の一般の部隊はコストの問題から誘導爆弾が使われた比率は少なく、ほとんどは無誘導爆弾が使われた。一方、F-117の部隊においては終始GBU-27誘導爆弾を使用している。湾岸戦争では44機が参加。42日間、合計1,271ソーティの爆撃を遂行し、1機も被害を出さなかった。
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参加作戦
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「コンフォート (T-AH-20)」の記事における「参加作戦」の解説
砂漠の楯/砂漠の嵐作戦 砂漠の嵐作戦時、「コンフォート」はサウジアラビアの沖合、カフジの近くに停泊した。1991年3月12日には帰国途中にあり、1991年4月15日にボルチモアに帰港する。「コンフォート」は6万5000キロメートルを航海し、1100万リットルの燃料を消費した。8000人を越える外来患者を治療し、強襲揚陸艦「イオー・ジマ (LPH-2)」で蒸気漏れ事故によって負傷した4名の兵士を含む700名が入院した。また、337回に及ぶ外科的処置が行われた。その他特筆すべき記録としては、2100回を超えるヘリコプターの離着艦、7000回に及ぶ処方、1万7000件に及ぶ検体検査、1600もの眼鏡の作成、80万食に及ぶ給食、141回のCTスキャンを含む1340回のX線検査などがある。 シー・シグナル作戦 「コンフォート」はハイチ難民のための手続きセンターとして展開することを命じられた。本作戦時、「コンフォート」が第一海上手続きセンターと指定される。艦は928名の軍人、様々な政府機関職員、国際機関職員を乗船させカリブ海へ出発した。1994年6月16日に最初の難民が収容される。1か月に及ぶ活動で乗艦した難民は1100名に及んだ。その後「コンフォート」は作戦の中断を命じられ、残りの400名を下船させた後キューバのグアンタナモ湾へむけて出航した。 アップホールド・デモクラシー作戦 1994年9月2日に「コンフォート」は再び先例のない配備を命じられる。3万5000にも及ぶキューバ、ハイチ難民を支援するグァンタナモ米軍基地に250床の医療用ベッドを提供した。「コンフォート」は566名の特別メンバーを乗艦させボルティモアを出航し、アメリカ合衆国とハイチとの間に結ばれた特別協定に従ってポルトープランスの沖合に停泊し、負傷者を受け入れできる位置を取った。1994年9月16日から10月2日まで「コンフォート」はアメリカ軍および国連部隊に対する内科・外科的治療を支援し、負傷したハイチ市民への人道的処置と、現地の医療機関システムを回復する努力に対して援助を行った。艦は1994年10月14日にボルティモアへ帰港した。 ノーブル・イーグル作戦 「コンフォート」は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生時、医療支援を行うため同日の午後出港した。9月14日の午後8時30分頃にマンハッタンの第92桟橋に到着し、同日の夜数名の救護員が乗艦した。艦が活動を始めると数日の間により多くの救護員が到着する。艦には561名の切り傷、呼吸器疾患、骨折およびその他の軽傷を負った患者が治療のために訪れ、また、「コンフォート」の心理学チームは500件の精神衛生相談を行った。艦はまたニューヨークのマッサージ・セラピストのボランティアを受け入れ1359件の医学治療マッサージを行った。 イラクの自由作戦 「コンフォート」は2002年12月26日に作戦への参加を命じられ、2003年1月6日に出航する。途中国立海軍メディカルセンターからのスタッフを乗艦させるためディエゴガルシア島に立ち寄り、その後ペルシャ湾入りし医療センターとしてイラクの自由作戦を支援する。「コンフォート」は負傷したアメリカ軍将兵と同様にイラクの民間人やイラク軍捕虜にも専門的治療を施し、ペルシャ湾で56日間の活動を行う。2003年6月12日にボルティモアに帰港し、ほぼ半年間の活動を記録した。この間に800回のヘリコプターの離着艦、590回の外科的治療、600単位の輸血、8000を超えるレントゲン撮影を行った。またほぼ200人のイラク民間人と捕虜を含む700人の患者を治療した。 ハリケーン・カトリーナ ハリケーン・カトリーナの被害復興を助けるため、二日間の準備の後「コンフォート」は2005年9月2日にニューオーリンズ沿岸に展開した。7週間の活動後、2005年10月13日に帰港した。「コンフォート」は合計1956人の患者を治療した。 ハイチ地震 (2010年) 2010年1月12日21時53分(UTC、現地時間 16時53分)にハイチ共和国で起こったマグニチュード7.0の地震に対し、14日には現地に向かった。1月20日にはハイチ沖に到着、医療活動を開始した。医療従事者の陣容は、医療スタッフ合計550人程度(ハイチ到着後には350人増員)、そのうち外科医13人を含む医師40人。また、60日分の医療用品を搭載している。現地では整形外科治療を中心に、1日当たり最低100人を診察、2月15日の時点では治療した人数は妊婦を含め1000人をはるかに超えている。 新型コロナウイルス対策 (2020年) 2020年、アメリカ国内で新型コロナウイルスの感染が拡大したことを受けニューヨークへ移動。新型肺炎患者のためのベッドを確保するために、肺炎以外の治療を受けている患者の移転、療養先として使われた。
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