原爆投下に関してとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 原爆投下に関しての意味・解説 

原爆投下に関して

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 21:00 UTC 版)

レズリー・グローヴス」の記事における「原爆投下に関して」の解説

現在、アメリカでは原爆投下大統領だったハリー・トルーマンが自らの意思決断した。」という考え根強く残っている。しかし、最近の研究技術発達により、実はトルーマン明確な決断をしていなかったこと、そして原爆投下主犯グローブスではないかということ分かってきたという。 その証拠となったのがコロラド州コロラドスプリングス位置するアメリカ空軍士官学校にある、図書館書庫から見つかった原爆計画全て知る人物のインタビューテープだった。軍が正確な歴史記録として残そうとした。そこには当然、その責任者だったグローブスのインタビューテープもあった。収録された場所はワシントン日にち1970年4月だった。そのインタビューで、グローブスは、「(トルーマン)大統領市民の上原爆を落とすという軍の作戦止められなかった。」と語っていた。 実はトルーマン大統領就任する少なくとも5ヶ月も前からグローブスは、原爆投下スケジュール立てていた。その内容は、「最初原爆7月準備、もう1つ8月1日頃に準備1945年暮れまでに、更に17発作る。」というもので、グローブス原爆大量投下計画していた。 グローブスは、1942年から大規模原爆計画であるマンハッタン計画最高責任者就任。この計画22ドルもの国家予算注ぎ込まれ各地大規模な工場研究所建設し原爆完成目指した。 この様大規模な計画極秘進める事ができたのだろうか大統領との関係である。当時大統領フランクリン・ルーズベルトは、原爆興味を示すことはなかった。グローブスによると、「(ルーズベルト)大統領知っていたのは、私が責任者務めているということだけで、(原爆開発の)進捗について聞かれ覚えもない。この問題解決は私に任せられていた。その為にうまく開発進める事ができた」という。さらにグローブスは、「政権知っていたのは巨大な事業時間がかかるというだけで、必ず完成するとは思っていなかった。」という。 こうして、原爆計画進めてきたグローブスは、投下2年上前から、何処原爆を落とすかについて、すでに会議をしていた。その議事録残されており、それには、東京目標にすべきとも書いてあった。 その2年後の1945年4月のこと、グローブス想像もしていなかった事がおきる。ルーズベルト死去したその後となったのが、トルーマンだった。当時トルーマンは、副大統領になってわずか3ヶ月で、ルーズベルトとは1度しか会った事がなかった。就任した当時トルーマン様子グローブスはこう語っている。「トルーマン原爆計画について何も知らず大統領になった。そんな人が原爆投下判断する恐ろしい立場に立たされた。」 そして同じ年の4月25日グローブス当時陸軍長官だったヘンリー・スティムソンと共にトルーマンがいるホワイトハウスのもとを訪れ原爆計画の進捗状況について初め説明した計画続行承認する必要があった為である。早速グローブスは、24ページ報告書持参しており、その報告書には、計画の目的原爆材料仕組実施計画などが簡潔に書かれていた。しかし、このときトルーマンは、「報告書を読むのは嫌いだ。」と語ったという。この時、グローブスは、計画続行承認されたと勝手に解釈をしてしまったという。 トルーマン原爆計画知ろうとしなかった理由彼の故郷であるミズーリ州にあるトルーマン図書館保管されていた日記の中のトルーマン大統領就任した当日日記明らかになった。その内容は、「私の肩にアメリカトップとして重圧がのし掛かってきた。そもそも私は戦争がどう進んでいるのか聞かされていないし、外交にもまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ。」。この頃ヨーロッパ戦線では、ナチス率いドイツ降伏間近、そしてアジア・太平洋戦線でも日本追い詰め戦争をどう終わらせる舵取り求められていた。また、戦後国際秩序決めソ連など連合国との駆け引きトルーマンの肩にのし掛かっていた。スティーヴンス工科大学のアレックス・ウェラースタイン准教授によると、「誰もルーズベルト亡くなるとは思ってませんでしたトルーマン自身大統領になるとは思っていなかったので、軍とのやりとり方法ルーズベルト諸外国何を交渉し約束したのかを学ばなければなりませんでした多くのことを一度把握する必要がある中、孤立状態にあったのです。解決すべき難題多く原爆その1つにすぎませんでした。」という。また、カリフォルニア大学のショーン・マーロイ准教授も「トルーマン余裕がありませんでした外交経験がない中、戦後秩序決めなければならなかったからです。グローブスは後にこう述べている、「原爆に関してトルーマンは、そりに乗った少年様にただ滑り落ちていくけだった。」と、「(トルーマンが)大統領就任する前既に原爆投下に向け多く準備整っていました一方でトルーマンには原爆知識はほとんどありませんでした。」と説明したそんな中グローブストルーマンのもとを訪れた2日後1945年4月27日グローブスは、原爆日本のどこに投下する話し合う、『目標検討委員会』に出席した。ここに大統領だったトルーマンやその側近出席していない。話し合い結果以下の17か所が選ばれた(川崎横浜東京湾名古屋京都大阪神戸広島、呉、山口下関小倉八幡福岡佐世保長崎熊本)。その中で京都広島が有力候補上がりグローブス京都上げた。その理由についてグローブスは、「京都外せなかった。最初原爆破壊効果隅々行き渡る都市落としたかった。」と語っている。 そしてその3日後グローブスは、陸軍長官スティムソン呼び出された。目標所を答えたところ「京都認めない。」と言われた。その訳がコネティカット州にあるイェール大学図書館保管されていたスティムソン日記明らかになった。6月6日付け日記にはこう記されている。「この戦争遂行するにあたって気がかりことがあるアメリカヒトラー凌ぐ残虐行為をしたという汚名着せられはしないということだ。」。実はスティムソン京都二度訪ねたことがあり、原爆投下すればおびただしい被害者がでることを知っていた。スティムソンは、この頃勢い増していた日本への爆撃が、全世界非難する無差別爆撃に当たるのではと考えていた。これ以上アメリカイメージ悪化させたくなかったのだ。しかしグローブスは、諦めことなく何回スティムソン交渉をしたが、結果同じだった歴史学者によると、「都市真ん中原爆落とし市民殺戮する計画スティムソン反対でした戦争市民の死は避けられないことは分かっていたが、意図的に市民狙って殺すことは別だ考えていたのです。そしてトルーマン政権は、軍に突如介入し、まったをかけたのです。」と述べている。 そしてトルーマン政権と軍の攻防は、ある出来事きっかけ大きく動き始めた1945年7月16日行われた世界初原爆実験トリニティ実験である。一方日本でも多く都市焼け野原となり、降伏間近見られていた。ここでグローブスは、戦争が終わる前に原爆使用しなければならない考えた。この理由についてグローブスは、「原爆完成しているのに使わなければ議会厳し追及を受けることになる。」億単位もの国家予算費やした原爆計画グローブスはその責任者として、効果証明しなければならなかったのであるトリニティ実験5日後の7月21日スティムソン元に部下から緊急の電報届いたグローブスらが再び京都目標とするように言ってきた。その3日後スティムソンは、トルーマン相談し京都目標から外すよう話したスティムソン7月24日付の日記には「私は京都目標から外すべきだと大統領伝えた。もし一般市民が暮らす京都原爆を落とすという理不尽な行為をすれば、戦後和解をつみ、日本反米国になってしまうと。すると大統領は『全く同感だ。』と答えた。」と記されていた。また、トルーマン7月25日付の日記にも「この兵器7月25日から8月の間に使われようとしている。私はスティムソン兵士軍事物のみを目標とし、一般市民、特に女性子供ターゲットにすることがないようにと言っておいた。いかに日本人野蛮冷酷残虐であろうとも世界平和推進するリーダーたる我々が日本古都新都向けてこの恐るべき爆弾使用するわけにはいかないのだ。この点で私とスティムソン完全に一致している。目標軍事基地のみに限られる。」と記されている。つまり、トルーマン市民の上への原爆投下反対していたのだ。 しかしグローブスは、それでも原爆による最大破壊効果得たい為にもう一つの有力候補上がっていた広島に目をつけた。グローブス広島軍事都市であると偽りの報告書トルーマン提出した。「広島日本有数の港と軍事物資供給基地など軍の大規模施設が集まる陸軍都市である」とのこと。これについて歴史学者一人は、「軍は原爆によって一般市民だけを攻撃することはないと見せかけたのです。トルーマン広島について詳しく知らなかった思います調べる暇がありませんでした京都広島違い拡大解釈し、広島多く一般市民はいないと思いこんだのです。」。その結果トルーマン目標から広島を外すことはなかったという。 そして、1945年7月25日原爆計画最終段階迎えていた。グローブス起草した原爆投下指令書発令されたのだ。この指令書トルーマン承認した証拠は見つかっていない。そして8月6日原爆広島向けて落とされた。一方トルーマンその頃大西洋上にいた。戦後処理を話し合うポツダム会談から帰る途中原爆投下報告受けて船上演説収録した。「先程アメリカ軍は、日本の軍事都市である広島一発爆弾投下した原子爆弾がこの戦争引き起こした敵の頭上落とされたのだ。」。一方ワシントン原爆投下一報聞いたグローブスは、科学者たちに「君たち誇りに思う。」とねぎらったトルーマンが軍の策略気付いたのはそれから2日後のこと、ワシントン帰宅した直後のことだった。陸軍長官スティムソン日記には「8月8日午前10時45分私は大統領訪ねた。そして広島被害とらえた写真見せた。」。この時のトルーマン発した言葉記されていた。「こんな破壊行為をした責任大統領の私にある。」。軍の狙い見抜けなかったトルーマンはその自らの責任初め気付いたのだった。 しかし、動き始めた軍の作戦止まることなく暴走し始めた。そして8月9日原爆長崎にも投下された。トルーマン広島実態知った半日後のことだった。これに対しトルーマンは「日本女性子供たちへの慈悲思いは私にもある。人々皆殺しにしてしまったことを後悔している。」と8月9日付の日記記している。 その翌日トルーマンは全閣僚集め大統領許可無しこれ以上原爆投下禁じると発表した。この時トルーマンは「新たに10万人、特に子供たちを殺すのは考えただけでも恐ろしい。」と語った。これを知ったグローブスは「3発目の準備中止させた。大統領新たな命令がない限り投下はできなくなった。」と述べた。これで日本への原爆投下止まったのであるその後トルーマンその事実を覆い隠そうとしていった長崎原爆投下され8月9日ラジオ演説で「戦争早く終わらせ、多くアメリカ兵の命を救う為、自らが投下決断した。」と発言した。これについて歴史学者は「トルーマンは軍の最高司令官として投下責任感じていました例え非道な行為でも投下する理由があったというのは、大統領にとって都合の良い理屈でした。」と説明した

※この「原爆投下に関して」の解説は、「レズリー・グローヴス」の解説の一部です。
「原爆投下に関して」を含む「レズリー・グローヴス」の記事については、「レズリー・グローヴス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「原爆投下に関して」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「原爆投下に関して」の関連用語

原爆投下に関してのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



原爆投下に関してのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのレズリー・グローヴス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS